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長く続いた平安時代が終わり武士の世が始まる時代の変わり目に、30年以上もの間、さまざまな勢力を手駒にして渡り歩いた法皇がいました。
 
 
それが『平家物語』でもおなじみの後白河法皇(天皇)です。
 
 
意外にも彼は始めは誰からも「使えない」「無能」と思われていたおもしろい人物なのでした。

 
 

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後白河天皇(法皇)の生い立ち

 

 
1127年、後白河法皇鳥羽上皇の第4皇子として誕生しました。母は藤原珠子(待賢門院)、名前は雅仁(まさひと)親王といいました。
 
 
雅仁親王が幼いころは、父の鳥羽上皇が「院政」を行い政治の実権を握っていました。天皇は兄の崇徳天皇で、その後もう1人の兄の近衛天皇に移りました。
 
 
第4皇子の雅仁親王は皇位継承とは無縁と思われていたので、毎日遊び暮らしておりました。彼は当時流行っていた「今様(いまよう)」という歌にはまりまくり、周りから「今様狂い」とあきれられるほどだったそうです。

 
 

まさかの皇位継承と「保元・平治の乱」

 

 
雅仁親王は、成人してからも相変わらず「今様」を歌って趣味の世界で暮らしていましたが、先代の兄・近衛天皇が早死にしたことで、事情が一変します。
 
 
雅仁親王の息子の幼い守仁親王の名が、次の天皇候補にあがってきたのです。
 
 
それには、いろいろな人の思惑が絡み合っていました。
 
 
鳥羽天皇の后の美福門院、摂関家の藤原忠通信西(しんぜい)らが、もう一人の有力候補の崇徳上皇の息子を天皇させないため、画策していたのです。
 
 
しかし、父の雅仁親王を飛び越えて幼い守仁親王を即位させるのはどうかという意見が出たため、仕方なく「中継ぎ」としていったん「無能な」雅仁親王を即位させること決まったのです。
 
 
こうして29歳の雅仁天皇が即位し< span class="red b">後白河天皇
となりました。
 
 
「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」
 
 
崇徳上皇がこう評したように、凡庸な遊び人で政治のことなど何もわからない無能な天皇だと、誰もが思っておりました。でも、「院政」を行っていたのは鳥羽上皇だったので、問題はないはずでした。
 
 
ところが、後白河天皇が即位した翌年、その鳥羽上皇が病死してしまったのです。
 
 
「院政」を行っていた上皇のポジションがぽっかり空いたため、次に権勢を狙う人たちが色めき立ちました。
 
 
そうして、息子の重仁天皇をかついでリベンジしたい崇徳上皇と無能な後白河天皇を神輿に担ぎたい信西(しんぜい)などの勢力が対立し、1156年「保元の乱」が引き起こされたのでした。
 
 
「保元の乱「平治の乱」についてはこちらを↓



 

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平清盛の台頭


 
「保元・平治の乱」によって、朝廷は武士の力を借りなければもめごとすらおさめられないことを露呈してしまいました。
 
 
そして、「平治の乱」で源義朝を倒した平清盛は、いつの間にか武力と金を持つ大きな勢力になっていたのです。
 
 
後白河上皇と平清盛は、信頼関はなくお互い利用し合っていた仲でした。このころ、後白河上皇は出家して後白河法皇となりました。
 
 
しかし、平氏の力はどんどん大きくなり、危機感を募らせた後白河法皇は、同じ思いを持つ貴族たちとともに今のうちに平氏をつぶそうと考えました。そうして起こったのが、1177年の「鹿ケ谷の陰謀事件」です。
 
 
鹿ケ谷の陰謀以降、両者の対立と不信感は高まり、ついに1179年に後白河上皇は幽閉され、すべての政治の実権を平清盛に奪われてしまいました。

 
 

源平合戦で本領発揮


 
その後、後白河上皇は平氏をぶっつぶすには武力を持つ武家の力が必要と悟り、対抗馬として源氏を利用しようと考えました。
 
 
そして、彼は幽閉先から息子の以仁王を通じて平清盛の追討令を出したのです。
 
 
この追討令を受けて、平氏に恨みをもつ源氏の武士たちが「打倒平家」の名のもとに上洛したのでした。
 
 
その後はよく知られる源平の合戦に発展し、源頼朝の弟で配下の源義経が平家を追い詰め、とうとう1185年に「壇ノ浦の戦い」で滅亡させました。

 
 

武家政権とのせめぎ合い

 

 
平家滅亡の知らせを聞いた後白河法皇は、どう思ったでしょう?
 
 
おそらく「しまった!」と思ったのではないでしょうか。
 
 
平氏が力をつけすぎたから源氏を使ってその力を削いだのに、源氏一強になっては元の木阿弥です。彼は「院」としていくつかの拮抗した武家を上から支配したいと考えていたはずです。
 
 
そこで彼は、源氏の力を弱めるために内部分裂を図りました。頼朝を無視して平氏を滅ぼした源義経を殊勲者とし「官位」を授けたのです。
 
 
そうすると、まだ「官位」をもらっていない兄の頼朝が知れば、義経への反感と不信感が生まれるのは目に見えています。
 
 
後白河法皇は、これまでもこの優れた人心掌握術で、この難しい時代を生き抜いてきたのです。
 
 
しかし、源義経は頼朝に疎まれて、ついに逃亡先の奥州藤原氏のもとで自害し果てました。
 
 
1190年、後白河法皇は源頼朝と会い、話し合いをしました。
 
 
そして、頼朝の条件を飲んで幕府と朝廷という二重権力構造を容認しましたが、頼朝が望んだ「征夷大将軍」の地位を授けるのは拒否しました。
 
 
1192年、後白河法皇は66歳で病気で亡くなりました。
 
 
頼朝が征夷大将軍になれたのは、後白河法皇が亡くなった後ことです。

 
 

おわりに


 
後白河法皇は即位時には周りから「無能」と思われていましたが、人心を読んで操る力は常人離れしていました。政治力はないと評されますが、人間心理の洞察にはたいへん優れた人だったのです。
 
 
父からも兄弟からも息子(二条天皇)からも疎まれ、周りは彼を利用しようとする者ばかり、そんな環境の下で30年以上も「院政」を行ったのは「有能」だったからに他ならないからでしょう。

 
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