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日本の古代史最大のヒロイン・「卑弥呼」。
 
 
彼女が治める邪馬台国は、今もどこにあったのかさえ、はっきり解明されていません。
 
 
歴史の浪漫ですね。(⋈◍>◡<◍)。✧♡
 
 
でも、私がもっと気になるのは、「邪馬台国とヤマト政権との関係」です。
 
 
私が学生の頃習った「大和朝廷」は、今では「ヤマト政権」または「ヤマト王権」と習うようになっています。
 
 
実は、卑弥呼が死んでから350年ほどの間、日本の歴史は空白に包まれるのですよ。
 
 
その間に何があったのでしょう。
歴史浪漫ですね。

 
 

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ヤマト政権(大和朝廷)は、いつ頃成立したのか

 

 
邪馬台国の卑弥呼が死んだのは、240~249年と考えられています。
 
 
そして、その後、日本の歴史が明らかになるのは飛鳥時代(592年以降なんですね。
 
 
その間(249年~592年)のことは、はっきり分かっていないという・・・。
この時代は、「空白の4世紀」ともよばれます。
 
 
では、どういう経緯でヤマト政権は、成立したのでしょう?
 
 
当時は、日本は文字で文献を残すということがなかったので、中国の文献を参考にするしかありません。
 
 
鍵は、「中国の文献」だけでなく、「古墳」が握っています。
 
 
300年頃から、奈良盆地に大規模な前方後円墳が造られるようになりました。
 
 
大きな古墳の造設は、その後、全国に広がりを見せますが、それが600年頃には造られなくなります。同じ形の墓が全国的に造られるいうことは、この時期すでに、全国を統一していた国があったと考えられますね。
 
 
ヤマト政権が成立したのは、この古墳時代と推測されています
 
 
古墳の造設は400~500年頃に最盛期を迎えました。つまり、ヤマト政権は300年頃にできて、400年~450年頃には全国に勢力を拡大したと考えられます。
 
 
そして、600年以降、前方後円墳が造られなくなった時期に、ヤマト政権の権威が確立したと考えられるのです。
 
 
もともと、ヤマト政権は有力な豪族による連合政権のようなものでしたが、有力な豪族の蘇我氏がライバルの物部氏を倒して実権を握りました。
 
 
そして、蘇我氏の一族である推古天皇が即位し、摂政・厩戸王(聖徳太子)が蘇我氏と協力して国内の政治改革を行うという飛鳥時代につながるのです。
 
 
推古天皇の即位が592年、厩戸王(聖徳太子)が摂政になるのは、翌593年です。古墳の造られた時期から推定される600年頃と、時期が合いますね。
 
 
推古天皇・聖徳太子については、こちらでお伝えしています。
 
 
合わせてどうぞ♪
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ヤマト政権(大和朝廷)の場所はどこ?

 

 
馬台国の場所は、現在のところ「九州説」「近畿説」に識者の意見が分かれています。
 
 
しかし、ヤマト政権は、間違いなく近畿、それも奈良県にありました。
 
 
古代、奈良県は「大和(やまと)の国」と呼ばれていました。
 
 
そして、ヤマト政権の中心地は、聖山・三輪山のあたりといわれます。これは、今の奈良県の三輪地方、桜井から天理のあたりです。
 
 
奈良の神社の多くがそうですが、ここには、談山神社、大神神社など、古代から続く神社が今も残っています。また、当時の古墳もたくさん残っていて、今でも土地開発の際に、縄文土器や弥生土器の一部が数多く出土されています。
 
 
奈良盆地は、四方を美しい山に囲まれた平地で、米や穀物など多くの農作物がとれる土地でした。ですから、古くから文化が発達して、弥生時代には、九州とともに、日本で最も文化の進んだところでした。
 
 
ヤマトの国を納めていたのは力の強い豪族で、その中心となったのが、今の皇室の遠い祖先です。皇室の祖先の力は次第に強くなり、やがて天皇として豪族たちを従え、中央集権的な権力を握るようになりました。

 
 

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ヤマト政権と邪馬台国の関係

 

 
邪馬台国とヤマト政権のはっきりした関係は、まだ分かっていません。
 
 
前述のように、ヤマト政権は奈良県にありましたが、邪馬台国の場所は、「九州説」と「近畿説」があります。

 
 


 
 

邪馬台国が大きくなり、近畿に東征してヤマト政権のもとになったという説があります。名前が似ているのも、その根拠の1つといわれます。
 
 
でも、邪馬台国とヤマト政権では、統治体制がかなり違うんですよね。
 
 
当時、もっとも強国だった邪馬台国が、周りの国を併合してヤマト政権の母体となったという説は、もっともにも見えますが、少なくともこの2国の統治体制は、全く異なるように見えます。
 
 
時代がかなり下っているというのもありますが、邪馬台国は神官を中心にした緩やかな連合国家の盟主でしたが、、ヤマト政権は力の強い豪族(後に天皇)を中心とする中央集権国家でした。
 
 
しかし、一方で、邪馬台国が敵国としてヤマト政権に滅ぼされていたのだとしたら、古事記・日本書紀あたりにそういうほのめかしがありそうなのですが、特に、悪くは書かれていません。
 
 
そう考えると、穏やかに吸収合併したのかなと思えます。
 
 
いずれにせよ、真実は「空白の4世紀」の記録が出てこない限り、明らかにはならないのです。

 

まとめ

 

 
● ヤマト政権の成立時期
 
 
ヤマト政権は300年頃にできて、450年頃から全国に勢力を拡大、600年頃に中央集権が確立する。
 
 
● ヤマト政権の場所
 
現在の奈良県三輪地方・桜井市から天理市のあたりにあったという説が有力。
 
● ヤマト政権と邪馬台国の関係
 
2国の関係性は、諸説あって、いまだにはっきり解明できていない。
 
邪馬台国は、場所の特定もできていないので、歴史浪漫としてとても興味深い。

 
 
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