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武田信玄の正室「三条」は、歴史ドラマでは、とにかく高慢ちきでワガママな公家女という描かれ方をします。
 
側室の諏訪御料人が悲劇の美女として描かれるのと、対照的です。
 
間違いなく、そういう思惑で創作されているのでしょう。
 
淀殿と同じく、歴史の中で不当に悪女認定されてきた三条夫人を、今回はご紹介します。

 

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名門・武田家

 

 
武田信玄の正室は、公家の三条家の姫君でした。
もちろん政略結婚です。
 
つまり、武田家は、公家の姫を妻に迎えられる家柄だったということです。
 
甲斐国を治める武田家は、非常に高い格式ある守護大名でした。
 
この縁談を持ちかけたのは、今川義元(寿桂尼)といわれます。
今川義元は、信玄の姉を正室に迎えているので、信玄の義兄にあたるのでした。

 

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清華家・三条家の姫君

 

 
三条夫人(1521~1570年)の実家・三条家は京都の公家で、家格は清華家です。
これは、五摂家のすぐ下、最上流貴族の一つの家柄になります。
 
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歴史ドラマでは、よく公家と武家のしきたりや生活が違うので、三条夫人が武田家を侮辱したり、都に帰りたいとぐずったりすることがあります。
 
しかし、当時の京の都は、応仁の乱の後でかなり治安が悪かったですし、公家の娘が武家に嫁ぐことも、ままありました。
 
例えば、三条夫人の姉は、細川晴元の正室ですし、妹は、なんと本願地顕如の妻です。
 
ということは、三条夫人と結婚することで、武田家は、室町幕府管領の細川家、本願寺も姻戚関係を持ったということなのです。もしも、彼女がしっかり者だったら、武田家としては、これほど心強いパイプ役はいなかったでしょう。
 
三条夫人は、信玄との間に義信、黄梅院、信親、信之、見性院という3男2女をもうけます。

 

京の都のパイプ役として活躍した?

 

 
武田信玄は、上杉謙信とのライバル対決が目立ちますが、後に、京を目指すことを決心します。
 
信玄が京の都に向けて軍事行動を起こした際、三条夫人の助力は、たいへん大きな力だったでしょう。
 
なんといっても幕府の管領・細川春元と本願寺顕如に姉妹が嫁いでいますからね。
凄いコネクションですよ!
 
信玄が、実際に都を目指したとき、おそらく三条夫人は、姉をとおして細川家に働きかけていたと思われます。
 
信玄は、もちろんそれを最大に活用し、「信長包囲網」を築くことに成功しました。
 
公家の娘といえば、箸より重いものを持たない苦労知らずなワガママ姫と思われがちですが、(実際、そういう姫もたくさんいましたが)、彼女は、最後まで信玄と添い遂げています。
 
それに、お隣の今川義元の母・寿桂尼も公家出身ですが、凄い政治手腕を見せた女性ですよ。
 
三条夫人は、実は、かなり有能な女性だったのではないかと思えてきます。

 

長男が謀反の疑いで自害

 

 
伝えられてるイメージと違って、三条と信玄の中は、よかったといわれています。彼女の不幸は、子供たちの身の上に次々起こる不運でした。
 
次男の信親は、幼少期に(生まれつきという説あり)失明し、盲目でした。
彼は、後に仏門に入ります。
 
そして、彼女が30歳のとき、頼りにしていた実家の父・三条公頼が殺害されます。そして、嫡男がいなかった三条家は、途絶えてしまいました。
 
2年後には、3男信之が11歳で亡くなります。
 
ですが、三条夫人の最大の不運は、自分の子供を武田家の跡継ぎにできなかったことでしょう。
 
1565年に、長男・武田義信が武田信玄に対する謀反に関わったとして幽閉され、2年後に自害します。
 
母親として、これは、あまりある心痛だったでしょう。
これで、彼女は、自分の息子に武田家の家督を継がせることができなくなりました。
 
そして、1568年、信玄の駿河侵攻により、北条氏政に嫁いでいた長女の黄梅院が離縁され戻ってきます。黄梅院は、氏政と仲がよかったため深く哀しみ、翌年に27歳で病死してしまいます。
 
三条婦人も、娘の死の翌年、1570年に病で亡くなりました。
 
墓所は、山梨県甲府市の円光院に残されています。

三条夫人のまとめ


 
三条夫人のことを調べると、後世、創作されたイメージとかなり違っていることが分かります。
 
武田家のためにおそらく都とのパイプ役を務め、助力したにもかかわらず、悲しい事が続いた人生だったでしょう。
 
● 清華家・三条家の姫君だった
 
● 姉は室町幕府管領・細川晴元の正室だった
 
● 妹は、本願寺顕如の妻だった
 
● 信玄が都を目指したとき、姉妹とおして政治的に働きかけたらしい。
 
● 信玄との間に、3男2女をもうけた
 
● 長男・義信が謀反の疑いで幽閉・自害した

 
 
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