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こんにちは。
 
 
天下一を目指した信長は、そのときどきに合わせて拠点となる城を変えました。
 
 
織田信長のお城というと、あなたはどのお城を思い浮かべますか?
 
 
私は安土城です♪
 
 
子供のころ、家族でよく滋賀にドライブに行ったんですよ。愛犬とあの石段を一緒に上ったな~と懐かしく思い出します。
 
 
安土城は今は石畳の道と石垣の一部しか残っていませんが、その寂びれた様子が「兵どもが夢の跡」という感じで素敵なのです。
 
 
復元を見る限りでは、なかなか絢爛豪華で趣味の悪い(?)お城のようですけど・・・(私の好みと違うだけ)
 
 
今日は、信長が過ごした5つの城についてご紹介します。

 
 

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「那古屋城」信長の父が奪い取った城

 

 
「那古屋城」愛知県名古屋市にあった城で、信長が生まれた城です。
 
 
もとは今川氏豊の居城だったのですが、信長の父親・織田信秀が今川家から奪い取って織田家のものとなりました。
 
 
その後、信秀は幼い信長にこの城を譲り、自らは新しく築いた別の城に移っています。
 
 
父の信秀が急逝した後、家督を相続した信長は、そのままこの城をを居城にしました。ですから、「那古屋城」は信長が当主となって始めての居城だったのです。
 
 
それから4年後、信長は拠点を清洲城へ移し、那古屋城を家臣に譲りました。
 
 
関ケ原の後、1610年に徳川家康が廃城となっていたこの「那古屋城」に目を付け、それを拡張する形で「名古屋城」を築城しました。
 
 
「名古屋城」の築城には加藤清正など西国の諸大名20家が携わり、5年後(1615年)に完成しました。それ以降、徳川家の城となっています。

 
 

「清州城」信長亡き後「清州会議」で知られる城

 

 
「清洲城」愛知県清須市にあった城です。
 
 
名古屋市の北西にあるのですが、信長の時代はここが尾張の中心部でした。1555年から約8年間、信長が居城とした城です。
 
 
この清州は京鎌倉往還と伊勢街道が合流し、中山道にも連絡する場所なので、交通の要所として重視されたのでした。
 
 
「桶狭間の戦い」に出陣した城で、1562年には徳川家康と「清洲同盟」を締結した城でもありました。
 
 
「本能寺の変」で信長が自害した後、その事後処理、織田家の跡継ぎを決める「清州会議」が開かれたもこの城でした。
 
 
徳川家康がより利便性の高い場所にある「名古屋城」を築城したことで、清州城は1613年に廃城になりました。
 
 
清州城の跡地は、今は「清須公園」となり市民の憩いの場となっています。

 
 

「小牧山城」美濃の攻略の拠点となった城

 

 
「小牧山城」愛知県小牧市に建てられた城です。
 
 
1563年信長が美濃攻略のために築城した城でした。1584年、豊臣秀吉と徳川家康の戦い「小牧長久手の戦い」のときに、徳川軍が本陣を置いた場所でもあります。
 
 
「小牧山」という小高い山に建てられたのですが、この山は濃尾平野でただ1つの独立した丘陵でした。
 
 
辺りを一望できるので、戦いの陣を敷くのにぴったりの場所だったのです。
 
 
信長は美濃を制圧した後、居城を「岐阜城」に移転しました。そのとき、この「小牧山城」は廃城になりました。

 
 

「岐阜城」天下を目指す拠点の城

 

 
1567年、信長は美濃の攻略に成功し、「小牧山城」から「稲葉山城」へ居城を移しました。
 
 
「稲葉山城」はもともと美濃を治めていた斎藤道三が建てた城でした。信長がそれを手にいれたとき、城の名前を「岐阜城」と改名したのです。
 
 
そもそも「岐阜」という地名も、信長がつけたものでした。そして、この城にいるとき、信長は「天下布武」を唱え始めたそうです。
 
 
「岐阜城」は金華山の山上に築城されましたが、それとは別に山麓にもう1つ「居館」がありました。居館には会議用の豪奢な建物や御殿が建てられ、大きな美しい庭園も造られていました。
 
 
8年後に「安土城」へ移った信長は、この城を嫡男の信忠に譲りました。「本能寺の変」で信長親子が亡くなった後は、信長の孫の秀信が城主となります。
 
 
その後、1600年、「関ケ原の戦い」の前哨戦で、西軍に属していた「岐阜城」は落城し廃城となりました。
 
 
現在、「岐阜城」は観光名所になっていますが、それは昭和31年(1956年)に復元されたものです。
 
 
レストランや資料展示室があり、天守閣からは長良川や遠く連なる伊吹の山並が一望できますよ。

 
 

「安土城」天下を目指した幻の城

 

 
「安土城」は、1576年に信長が滋賀県近江八幡市に築いた城です。だんだん「京の都」に近づいてきましたね。
 
 
この城は信長が天下に王手をかけたとき築いたもので、絢爛豪華な造りだったといわれます。
 
 
天守や御殿が完成すると、信長は近江の民衆にこれらの建物の見学を許可しました。たくさんの領民や宣教師たちが見学に訪れ、信長の「富と権力
」を目の当たりにしたと伝わります。
 
 
この「安土城」は今は石垣と石段しか残っていませんが、その石垣が非常に革新的な構造だったと知られています。
 
 
それまでは城を建てるとき、石垣は土留めとして使われていたのですが、「安土城」は石垣の上に建物を建てているのです。
 
 
「安土城」は「本能寺の変」の後、「山崎の戦い」のすぐ後に、何者かによって火を放たれ焼失しました。
 
 
明智軍の残党が火を放ったとも、略奪目的で乱入した野盗や土民が放火したともいわれます。
 
 
「現在、「安土城天守・信長の館」で、安土城の天守最上部5~6階の原寸大復元が展示されています。
 
 
これは焼失から400年あまり経た1992年に、「スペイン・セビリア万博」の日本館のメイン館展示として製作・展示されたものです。
 
 
万博終了後、「天主」を安土町が譲り受け、内装をさらにパワーアップさせました。
 
 
その天守内部には、信長が狩野永徳らに描かせたと伝えられている「金碧障壁画」も再現されています。

 
 

まとめ


織田信長の主な居城についてお伝えしました。
 
 
5つの城のうち那古屋城は徳川家によって大幅にリニューアルされて「名古屋城」として生まれ変わりましたが、残り廃城、または焼失して失われています。
 
 
「岐阜城」は、昭和の時代に復元されたものです。
 
 
城の場所を次々と変えているところからも、1つの城、1つの国を守って地盤を固めようという従来の戦国大名と違って、信長が「全国統一」を本気で考えていたというのがよくわかりますね。
 
 
1.那古屋城ー「名古屋城」として現存
2.清州城ー廃城
3.小牧山城ー廃城
4.岐阜城ー廃城→復元
5.安土城ー焼失

 
 
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