この記事を読むのに必要な時間は約 9 分です。


 
こんにちは。
 
 
織田信長が天下人への階段を昇り詰めていくとき、彼の元には数々の「名刀」が集まってきました。
 
 
その多くは戦の敗者からの戦利品や、家臣から献上されたものでした。
 
 
織田信長の刀シリーズ、今回は短刀の「不動行光」(ふどうゆきみつ)について。
 
 
「♪~不動行光、つくも髪、人には五郎左御座候(ごろうざござそうろう)~♪」
 
 
織田信長は、宴会でほろ酔い気分になると、ポンッと膝を叩いてよくこう歌ったそうです。当時(若い頃)の織田信長の自慢の「三宝」を歌ったものでした。
 
 
「つくも髪」は「九十九髪茄子茶入」(つくもがみなすのちゃいれ)という茶器のこと。
 
 
「五郎左」は信長の小姓上がりの重臣・丹羽(五郎左衛門)長秀(にわごろうざえもんながひで)のこと。
 
 
そして、「不動行光」(ふどうゆきみつ)は、今回くわしくご紹介する信長の「愛刀」の名前です。

 
 

スポンサーリンク

信長の自慢の一振「不動行光」

 

 
不動行光は、刃渡り八寸四分(約25.4cm)の「短刀」です。(脇差とされる場合も)
 
 
「不動明王」とそのけん属の二童子「矜羯羅童子(こんがらどうじ)」と「制多迦童子(せいたかどうじ)」が浮彫りされていたことから「不動行光」と呼ばれるようになりました。
 
 
作刀したのは相模国(神奈川県)の刀匠・藤三郎行光(とうざぶろうゆきみつ)です。彼は相州伝の開祖・新藤五国光の門人だったのですが、その新藤五国光は、粟田口国綱(あわたぐちくにつな)の息子でした。
 
 
織田信長は他に「不動国行」という名匠・来国行(らいくにゆき)が作刀した太刀も持っていたので、逸話はこちらの太刀と混同されている場合もあります。
 
 
ただ、次にご紹介する森蘭丸とのエピソードは、短刀の「不動行光」に間違いないのでした。
 
 

信長が森蘭丸に贈った愛の証?

 

 
ある日、信長がふと思いつき、戯れに小姓たちを集めてこういいました。
 
 
「この刀の鞘(さや)の刻み目の数を当ててみろ。言い当てた者には、ほうびにこの不動行光をやろう」
 
 
不動行光の鞘(さや)は、うるし塗りの「刻み鞘」だったのです。
 
 
数当てゲームの賞品がその刀(不動行光)そのものだったというのは、気前がいい人ですね。(機嫌がよかったのかな)
 
 
小姓たちはざわめきたち、この数当てゲームに真剣になりました。そんな中、森蘭丸だけは、なぜか答えませんでした。
 
 
なぜかというと、実は森蘭丸はこの刻み目の数を知っていたのです。
 
 
信長は厠(かわや)へ行くとき、いつも不動行光を森蘭丸に預けて行っていました。
 
 
主君を待つ間に、蘭丸は刀の刻み目の数を数えていたのです。
 
 
信長に「なぜ答えないのだ」と問い詰められ、森蘭丸はこう応えました。
 
 
「私はいつも信長さまが廟(かわや)に行くときこの刀を預かっていましたので、鞘の刻み目の数を知っております」
 
 
「知っているのに知らないふりをして、言い当てることなどできません」
 
 
その言葉を聞いた信長は、正直に言った蘭丸の心根に感心し、彼に不動行光を与えたのです。こうして、不動行光は、信長から蘭丸に手渡されたのでした。
 
 
蘭丸は「数」に関してすごく几帳面なんですよね。「待ってる間、暇だからってそんな数、数えるか?」と思うのですが、そこが彼の隅々まで目の届くところなのでしょう。
 
 
彼には、他にもいろんな「できる子」エピソードが残っています。

 
 

スポンサーリンク

「本能寺の変」で信長・蘭丸と共に焼かれた

 

 
森蘭丸は、敬愛する主君から拝領した名刀・不動行光を、とても大切にし肌身離さず持ち歩いていました。
 
 
天正十年(1582年)6月2日「本能寺の変」で織田信長が家臣の明智光秀の謀反により自害します。
 
 
実はこの直前に森蘭丸は、普段そつのない聡明な明智光秀が心ここにあらずという感じでぼんやりしているのを感じ取り、「謀反の疑いあり」と信長に進言していたのです。
 
 
それを聞いた信長は「まさか~」と取り合わなかったそうですよ。それにしても森蘭丸の洞察力、おそるべしですね。
 
 
本能寺で明智軍に取り囲まれたときも、蘭丸は信長のすぐそばに仕えていたはずです。その蘭丸を討ち取ったのは、光秀の家臣・斉藤利三に仕えていた安田作兵衛という人でした。
 
 
安田作兵衛は、信長と斬り合って槍で傷を負わせています。
 
 
おそらく主君が襲われた刹那、蘭丸が間に入って安田作兵衛と戦時間かせぎをしたのでしょう。その間に、信長は火をかけて自害したと考えられます。
 
 
最後まで主君の名誉を守り抜いた森蘭丸。
 
 
彼はこの最期のときにも、主君から拝命した短刀「不動行光」を携えていました

 
 

おわりに

 

 
こうして、不動行光は本能寺で信長・蘭丸と共に焼けました。
 
 
その刀身はその後、再刃(さいじん)され蘇っています。
 
 
不動行光は森蘭丸の手を離れてから、信長の次男・信雄へ伝わり、信雄から小笠原忠真が拝領したと小笠原家の記録に残っています。
 
 
その後は代々、備前小倉藩小笠原家に伝わりました。
 
 
昭和4年(1929年)3月に催された「日本名宝展覧会」で、小笠原長幹伯爵が所持していると確認されていて、今も「個人所有」の刀剣です。
 
 
不動行光は信長だけでなく「信長と蘭丸の逸話」の残る刀剣というところが、レアなのでした。
 
 
【関連記事はこちら♪】
   ↓





 
 


 
 

スポンサーリンク