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傅役
 
 
この字なんて読むの?
 
 
現代人には馴染みのない職業・傅役。
 
 
戦国時代の大きな家は嫡男は生母のもとで養育されず、幼いころから特別な家庭教師をつけられ英才教育を受けました。
 
 
嫡男の家庭教師兼お世話係だったのがこの「傅役(もりやく)」なのです。
 
 
イメージは「若殿」が「じい」と呼んでいる人、かなりの切れ者でなければ務まりません。
 
 
傅役と聞いて真っ先に頭に浮かぶのは、私の場合伊達政宗の傅役・片倉小十郎ですが、この平手政秀もかなり有名です。
 
 
彼は織田信長の「傅役」を務めた織田家の重臣でした。

 
 

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信長の「じい」は信秀の認めた教養人だった

 

 
平手政秀(ひらてまさひで)は1492年、平手経英(経秀)の子として尾張国で生まれました。
 
 
織田信長の父・織田信秀の重臣で、主に外交面で活躍しました。他家や将軍家だけでなく朝廷・公家との交渉役も務めていたのです。
 
 
それが務まるほど、和歌などの公家文化に通じた教養人だったのです。
 
 
1534年、織田信長が生まれると「傅役(もりやく)」に任命され、織田家の次席家老を務めることになりました。
 
 
織田信秀はかなり教育熱心なパパで、わざわざ京から呼び寄せた乳母をつけ、後に信長の参謀となる博学な僧・沢彦宗恩(たくげんそうおん)を美濃から招いて家庭教師にさせています。
 
 
1547年の織田信長の初陣(ういじん)の際にはもちろんその後見役を務め、織田信長が父から那古野城を譲られたときには、林通勝(林秀貞)と共に付家老になりました。

 

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交渉役として織田家に大きく貢献した

 

 
平手政秀は織田家外交を担当し、交渉役として大きな貢献を残しています。
 
 
織田信秀が伊勢神宮外宮造営のため寄進した際、また朝廷への内裏の修理料4000貫献上などの際、交渉役を務めたのはこの人でした。
 
 
朝廷へは織田信秀の名代として上洛しています。
 
 
さらに、1548年には美濃の斎藤道三と和睦を成立させ、織田信長と濃姫(帰蝶)との婚約を結ぶ交渉に当たり縁組を成功させました。
 
 
すごい外交力ですね。

 
 

信長が「うつけ」すぎて切腹したのは本当?

 

 
そんな仕事のできるやり手な「じい」は、家臣たちから「うつけ(アホ)」「たわけ」と陰口をたたかれていた若(信長)に失望していました。
 
 
当時の信長は、みょうちきりんな恰好をして舎弟を引き連れては城下で奇行を繰り返す不良少年でした。
 
 
「じい」はもちろん何度も注意をしていますが、信長はまったく聞く耳を持ちません。
 
 
そんな信長の姿は家臣たちから見ると「うつけ」にしか見えず、とても織田家を任せられる人物ではないと思われていました。
 
 
そんな折、父の信秀が亡くなりました。信長は葬儀の席で焼香を投げつけるという横暴な行為に出、家臣たちは一同「やはりうつけか」と頭を抱えました。
 
 
「こんな風に育ったのは自分の責任、これ以上生きていてもしかたがない」と失望した平手政秀は、死をもって信長の目を覚まさせようと切腹した・・・と、たいていの歴史ドラマこうなってます。
 
 
とにもかくにも、このころ平手政秀は自刃して果てたのです。
 
 
でも、はっきりとその理由が分かる史料は、今のところ残っていません。
 
 
平手政秀切腹の理由は、他にもいくつか説があるのです。
 
 
ただ、「じい」の死を知った信長が、悲しんだのは確かだったでしょう。
 
 
それから織田信長は、政秀寺という平手政秀の名前のお寺を建立して菩提を弔いました。
 
 
沢彦宗恩(たくげんそうおん)をお寺の開山としたことからも、本気で菩提を弔っていたと思われます。
 
 
「じい」はもう自分の役目は終えたと思ったのでしょうか。
 
 
それとも、もっと深いわけがあったのでしょうか。
 
 
今となっては、知る由もありません。
 
 
政秀寺のHPはこちら⇒★こちら

 
 

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