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こんにちは。
 
織田信長の刀シリーズ。
今回は「へし切長谷部」(へしきりはせべ)
 
 
長谷部は信長の刀ですが、「本能寺の変」のときには信長から黒田孝高(官兵衛・如水)に譲られてたので焼けてません。(薬研・宗三、不動は本能寺にいました)
 
 
「刀剣乱舞・花丸」で「不動行光」が長谷部を知らなかったのも史実通り、不動が信長のもとに来る前に長谷部は信長の手を離れています。
 
 
でも、史実では織田信長は特別「へし切り長谷部」を大事にしていたようなんですよ。
 
 
なんといっても「凄まじいほどの切れ味」「恐ろしいほど切れる」と言われた刀剣ですから・・・

 
 

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「へし切長谷部」は福岡にいるけど「京のかたな」

 

 
「へし切り長谷部」は、南北朝時代の刀工・長谷部国重が作った刀です。
 
 
長谷部国重は、山城国(京都)五条の刀工、なので長谷部は「京のかたな」なのです。
 
 
そして、刀剣擬人化ゲーム「刀剣乱舞」に実装されている刀です。
 
 
ですから、2018年秋の京都国立博物館「刀剣乱舞」コラボ刀剣23振に含まれているのでした!
 
 
福岡から京都にやって来るですよっ!!!
 
 
「へし切長谷部」は通期展示なので9月29日(土)~11月25日(日)まで展示されますよ。
 
【関連記事】⇒★京都国立博物館「とうらぶ」コラボ全23振の展示情報
 
 
関西在住の私としては、福岡まで行くのは大変なので、めっちゃうれしいです。
 
 
「へし切長谷部」は、元は「大太刀」(おおだち)でした。後に磨り上げて「太刀」になりさらに「打刀」にされています。
 
 
「銘」はありませんが、安土桃山時代の刀研師・本阿弥光徳が鑑定して「名匠・長谷部国重の作」であると確定されています。
 
 
そのとき、茎(なかご)にその「鑑定名」が刻まれました。

 
 

名前が変なのは信長の命名センスが変だから?

 

 
「へし切長谷部」の「へし切」は「圧し切」とも書きます。
 
 
この部分が変ですね。ま、「にっかり青江」ほどのインパクトはありませんけど・・・
 
 
「刀剣乱舞」の長谷部は、信長に付けられたこの「へし切」という部分が気に入らないようです。
 
 
その設定、多分、定評ある信長のおかしな命名センスからきてるのでしょう。信長は名前の付け方が変で、息子の名前もテキトーすぎなんですよ。
 
 
長男から順に・・・
 
 
奇妙丸(きみょうまる)・茶筅丸(ちゃせんまる)・三七丸(さんしちまる)・次(つぎ)・大洞(おおぼら)・小洞(こぼら)・酌・人・良好・縁
 
 
いきなり「奇妙?」ですし、三男は3月7日生まれだから「三七丸」、「次」とか「人」とか「人名ですか?」って感じですね。
 
 
「大洞「小洞」なんて「双子か?」と思いましたけど・・?
 
 
テキトーにせよ、もうちょっと「人名」らしいのがあるだろと思うのですが、けったいなセンスの人です。
 
 
「へし切長谷部」の「へし切」は、実際、人を圧し切ったからそのままそう付けたようです。(長谷部は刀工の名)
 
 
「へし切長谷部」は国宝の名物ですが、その特徴は「凄まじい切れ味」にありました。
 
 
それが名前の由来で伝説となった信長の人斬りエピソ―ドがあります。

 
 

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「茶坊主を隠れた御膳棚ごと圧し切る!」

 

⇒★こちらは高級居合刀・名物「へし切り長谷部」
 
この刀剣が「へし切り長谷部」と呼ばれるようになったのは、ある事件がきっかけです。
 
 
あるとき、信長は観内という茶坊主が無礼を働いたとして、お手討ちにしようとしました。
 
 
必死で城内を逃げ回る観内を、信長は執拗に追いかけまわしました。命がけの鬼ごっこですよ。
 
 
信長の怒りは茶坊主にとどめを刺すまで収まらなかったらしく、追い詰められた観内は台所の「棚」の下に入って隠れました。
 
 
彼を見つけた信長は、「出て来ぬなら、このまま圧し切る!」と、その御膳棚ごと観内を頭から真っ二つに圧し切ってしまったのです。
 
 
(棚の下に刀をいれて胴を真っ二つに圧し切ったという説も)
 
 
この出来事をきっかけにして付けられたのが、この刀剣の「号」です。
 
 
信長の気性の激しさ、執拗さと長谷部の切れ味の凄まじさが同時に伝わる一石二鳥な逸話なのでした。

 

 

「黒田家の家宝」として福岡へ

 

 
「へし切長谷部」は、黒田孝高(官兵衛・如水)が岐阜で信長に謁見したときに下賜されたといわれます。
 
 
その後、黒田孝高から息子・長政の手に渡り、代々「黒田家の家宝」とされました。
 
 
黒田長政は「関ケ原の戦い」で斬り込み隊長を務め、その功績で家康に重用され、初代・福岡藩主になった人です。
 
 
ですから、長谷部はそれからずーっと九州(福岡)で所蔵されているのです。
 
 
1978年(昭和53年)に、黒田長礼元侯爵夫人・黒田茂子氏が黒田家伝来の文化財を「黒田資料」としてまとめて福岡市へ寄贈しました。「へし切長谷部」もその中の1つでした。
 
 
というわけで、現在は「福岡市博物館」で国宝として所蔵されています。

 
 

おわりに

 

 
京都国立博物館に行きました。
 
 
へし切長谷部はもともと大大刀で、信長の逸話からも太くて大きなイメージがあったのですが、意外と小振りでした。
 
 
他には、同じく打刀の歌仙兼定も小振りだな~と思いました。
 
 
やっぱり本物を直接目にするのは、いろんな意味で勉強になってよかったです。

 
 

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