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こんにちは~。
 
 
織田信長のお小姓・森蘭丸
 
 
この主従「戦国一有名なBLカップル?」というほど知名度抜群ですね。でも、実はその根拠となる史料はまったく残っていないんですよ。
 
 
でも、蘭丸は信長が名刀「不動行光」をぽんとあげるほど、お気に入りの小姓だったのは確かです。
 
 
今日は、織田信長と森蘭丸、戦国時代の小姓についてお伝えします♪

 
 

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「小姓」の仕事は多岐にわたった

 

 
「小姓」という職種は時代や家、武将によっていろんな「仕え方」があったので、一言でこうだったとは言えないのでした。
 
 
身の回りの雑事だけをした小姓もいれば、主君の夜のお相手をした小姓もいました。主君がその少年に何を望んだかで仕事内容は微妙に違ったのです。
 
 
戦国時代の武家の場合「小姓は武士の役職」の1つでした。
 
 
織田信長は厳しい人だったので、気に入った少年の中でも特に有能な者を重用していたようです。
 
 
小姓は武将見習いとして多くは10代の少年が務めたので、気に入られると重臣になれるチャンスもありました。
 
 
「顔が良くて床上手ならOK~」なんて軽いノリでは、信長さまのお小姓は到底つとまらなかったのです。
 
 
おバカな小姓をうっかり他家に遣いにでも出したら主君が恥をかくので、人柄、機転、器量、あらゆる点で優れている必要がありました。

 
 

「小姓」はハイレベルな秘書だった

 

 
小姓の主な職務は、主君の側で日々の雑用をこなし、身の回りの世話をすることでした。
 
 
武家社会では主君の身の回りの雑事は、正室や側室などの女性はしなかったからです。
 
 
主君の食事、身支度、掃除、外出の際のお共、他家への伝言、夜のお相手など、職務は多岐にわたって大変だったんですよ。(もちろん分担してましたけど)
 
 
常に主君の側に控え来客者の目に触れる機会も多かった小姓は、優秀な秘書のような存在だったのです。
 
 
信長の秘書ということは、社長秘書ですよ。しかも、ブラック社長の秘書です。心身共にタフでないとやっていけません。
 
 
激しい人なので、下手なことをしでかしたら手打ちにされますよ~!

 
 

戦国の世なので「武芸」はもちろん必須

 

 
ときは戦国時代です。戦場だけでなく武将は常に暗殺者に襲われるリスクがありました。
 
 
なので、主君のすぐそばに仕える小姓は、もし主君が何者かに狙われたら、命に代えても主君を守り抜く心意気が必要でした。
 
 
つまり、武芸にも秀でる必要があったのです。
 
 
また、スパイ対策のためにもその出自はしっかりしていて、ほとんどが主君に縁のある武家の少年の中から選ばれました。
 
 
親や兄が織田家の家臣などです。(例外ありです)

 
 

夜のおつとめはもちろん大事な任務だった?

 

 
お小姓と聞くと、特に森蘭丸の場合、主な仕事は夜のおつとめ=「主君の衆道の相手」でしょ?って思われがちです。
 
 
実は、これも小姓の大事なお役目の1つではありました。
 
 
戦国時代は「衆道」はブームではなく「常識でしょ?」「武将のたしなみ的な?」「風流だね」という感覚でした。
 
 
なので、ラブラブエピソードを持つ戦国主従に事欠きません。
伊達政宗とか武田信玄とか・・・
 
 
でも、信長と蘭丸の場合、手紙など史実として明かなものが一切残っていないのです。蘭丸が美少年だったなんて記述もどこにも見当たりません。
 
 
なので、この2人の関係は、実際のところよくわからないのでした。

 
 

森蘭丸が信長に特別愛されたわけは?

 

 
でも、たくさんいた信長の小姓の中で、なぜ森蘭丸だけ名前が出るのでしょうね?
 
 
その理由は、やっぱり彼が抜きんでて「デキる小姓」だったからでしょう。
 
 
ここで簡単に、森蘭丸(1565年~1582年)の出自をお伝えしておきます。
 
 
彼は尾張国、森可成(よしなり)の三男として誕生しました。蘭丸の元服後の名は、森成利(なりとし)です。
 
 
6人兄弟でみんな信長の家臣になりました。
 ↓
可隆(よしたか)
長可(ながよし)
蘭丸(らんまる)
坊丸(ぼうまる)
力丸(りきまる)
忠政(ただまさ)

 
 
父親は「槍の名手」で、2番目の兄・長可(ながよし)は「鬼武蔵」と呼ばれる戦国時代きっての武闘派の武将でした。(こちらも槍の名手)
 
 
長可はものすごく気性の荒い乱暴者だったので評価はさまざま(強いけどやりすぎと言われる)なのですが、織田家のために尽くした一家なのは確かでした。
 
 
でも、やはり信長の人事の決め手は個人の「能力」です。
 
 
森蘭丸が、特別気に入られたのも、特別優れたできる子だったからにほかなりません。
 
 
彼はよく他の戦国大名の元に伝達係(手紙など)として派遣されています。そして、誰からも「信長殿の小姓は非の打ち所がない」とべた褒めされたのでした。
 
 
オッサンに好かれる「できる子」だった?
そんな森蘭丸の優秀エピソードが、いくつか残っていますよ。
 
 
彼はとにかくよく気が利く子で、観察力、洞察力に優れ、さらりと自然に主君の顔を立てまくるのが上手、ついでに、周りの人たちへの配慮も完璧だったのです。
 
 

◆「足りないツメ見つけた」な逸話

 

 
森蘭丸が織田信長に仕えるようになったのは1577年、13歳のときでした。
 
 
あるとき、信長はツメ切りをして、「切ったツメを扇子の上に置いたので捨てておくように」と、蘭丸に命じました。
 
 
「ははぁっ!」とよいお返事をして蘭丸が捨てようとしたところ、切ったツメの数が9つしかありません。
 
 
「あれ? 1つ足りない、きっとどこかに落ちてるはず・・・」
 
 
そうして、蘭丸は足りないツメを探して落ちていたのを見つけ、指10本分のツメをきちんと捨てたのでした。
 
 
これを終始見ていた信長は、几帳面なしっかりした子だと感心したそうです。
 
 
当時のツメ切りって「指1本につき1回という決まりでもあったの?」と思いますけど・・・
 
 
かなりずさんなストーリーなので後世の創作かもしれませんが、とにかく蘭丸の几帳面さがよくわかるエピソードなのでした。

 
 

◆「障子の開け閉め」の逸話

 

 
こちらも有名なお話です。
 
 
あるとき、信長は蘭丸に向かって、
 
 
「あの部屋の障子を開けたままにしてきた。閉めてくるように」
と、申しわたしました。
 
 
ところが、蘭丸がそこへ行ってみると、障子はしっかり閉まってたのでした。
 
 
そこで蘭丸は閉まっていた障子をいったん開けて、改めてパシンと音を立てて閉め直して来たのです。
 
 
信長が戻ってきた蘭丸に「開いていたか?」とたずねると、蘭丸はこう答えました。
 
 
「閉まっておりましたけど、信長様が開けたままとおっしゃったのを多くの者が聞いておりました。そのままでは信長様の思い違いだったと思われます。それで一度開けた後、また 閉めました。」
 
 
この言葉を聞いた信長は、なんとよく気の利く子だと感心したのでした。
 
 
主君アゲアゲのあざとさが分かる逸話でもあります。
蘭丸のあざとさは、私はちょっと引きます。(←ボケっとした子のほうが好みなだけ…)

 
 

◆「鞘の刻みの数は知ってます」な逸話

 

 
信長は数々の名刀を持っていましたが、その中に「不動行光」という一振(ひとふり)の短刀がありました。
 
 
あるとき信長は、思い付きで小姓に遊び(ゲーム)を投げかけます。
 
 
それは「この短刀の鞘(さや)の刻み模様の数を当ててみよ」というものでした。
 
 
この遊びで、またまた蘭丸は主君に感心されたのでした。
 
 
その逸話はこちらに ⇒★織田信長が森蘭丸に贈った名刀「不動行光」
 

 

本能寺の変で信長とともに散る

 

 
天正十年(1582年)「本能寺の変」が起こり、信長に同行していた蘭丸とその2人の弟・坊丸・力丸は明智軍と戦って戦死しました。
 
 
蘭丸は享年18歳でした。
 
 
森蘭丸が「小姓」として有名なのは、18という若さで亡くなったからです。もっと長生きしていれば、きっと優秀な武将として名を残していたでしょう。
 
 
森兄弟は、兄の長可が「本能寺の変」の2年後「小牧長久手の戦い」で戦死し、ただ1人、末っ子の忠政だけ生き残りました。
 
 
森忠政はその後森家を継ぎ、豊臣家に仕えて森家ゆかりの地・美濃金山を治めました。
 
 
そして秀吉の死後は徳川家康の味方につき、「関ケ原の戦い」の後、初代・津山藩藩主になったのでした。

 
 

戦国時代主従は、痴情のもつれがヤバかった?

 

 
戦国時代は血で血を洗うハイリスクな社会でした。当然、武将たちは、常に命の危険にさらされています。
 
 
そういう社会でもっとも恐ろしいのは、身内(家臣)の裏切りですね。
 
 
気を許した相手にブスっと刺されたり、毒をもられたりしたらおしまいなのです。実際に、暗殺された武将もたくさんいました。
 
 
そういう意味でも、家臣と心身ともにがーっつり仲良くなっておくのは、トップが身を守るための必須事項だったのです。
 
 
でも、男同士の場合、色恋に「出世競争」がからむから、強い嫉妬心が原因でヤバいことも起こりがちなんですよ。主君の寵を奪い合って刃傷沙汰を起こしたり、下剋上を起こしたり・・・
 
 
中国地方(周防)の大内義隆陶晴賢(はるたか)に下剋上されたのは、まさにこの「痴情のもつれ」男の嫉妬が原因(の1つ)でした。(←史実で確定)
 
 
見事な三角関係のもつれです。
 
 
現代の倫理にしばられると「気持ち悪~い」と思うかもしれませんが、性倫理や常識なんて時と場所が変われば、違ってもちっともおかしくありません。
 
 
小姓は先に述べた秘書的業務をこなしていたので、ほとんどの武将は複数の小姓を使っていました。
 
 
織田信長の若いころのお気に入りは、丹羽長秀前田利家などでした。どちらも後に重臣になってますね。
 
 
「若い頃は信長様のお小姓だったんだぞ!」
「一番かわいがられてだんだぞ!」

 
 
と、前田利家がじじいになってから周りの人に自慢していたことは、よく知られています。
 
 
つまり、当時の武士の感覚では、主君にめっちゃ気に入られていたということで、わざわざ言いふらしたいほどの「誉れ高い事」だったのです。
 
 
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