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こんにちは。
 
戦国武将人気ランキングで必ず上位に選ばれる織田信長
 
 
若い頃は周りの人から「大うつけ」と思われていたそうですが、今では戦国三英傑の1人に数えられます。
 
 
戦うことに特化した親衛隊(馬廻り)を作り、烈火のごとく領土を拡大し天下一を目指すやり方は、会社の利益第一主義なブラック社長そのものだったりして・・・
 
 
でも、その一方、家臣の妻たちにねぎらいの手紙を送ったり、領民に優しかったりというホワイトな一面も見せています。
 
 
戦国時代とはいえ、戦いの絶えない人生でしたが、天下統一に王手をかけたところで、身内(家臣)にやられて果てました。
 
 
この最期がまたまたドラマティック!
小説やドラマの主人公にぴったりの生き様ですね。
 
 
そんな織田信長の生涯について、今回はサラリと簡単にまとめていきますよ!

 
 

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織田信長の5つの戦い

 

 
信長は14歳の初陣から49歳で果てるまで、60回余りの戦いを起こしています。
 
 
勝率はけっしてよくないのですが、それでもしぶとく生き残り、守りに入らないところが信長らしいところです。
 
 
その60余りの戦いの中で、ここでは特に有名な5つの戦いを取り上げますよ。
 
 
・桶狭間の戦い
・長篠の戦い
・比叡山焼き討ち
・石山本願寺決戦
・本能寺の戦い

 
 

(1)桶狭間の戦い

 

 
1560年の「桶狭間の戦い」は、駿河(静岡県)の名門・今川義元との戦いです。
 
 
この戦いは2万5000という今川の大軍を約5000という少数の織田軍が破った戦いで、「日本三大奇襲」の1つに数えられる有名な戦いです。
 
 
でも、なぜ少数の織田軍が今川の大軍に勝利できたのか?
こちらの記事でその「5つの勝因」をお伝えしています。

    ↓


 
 
 

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(3)比叡山焼き討ち

 

 
1571年、織田信長は力をつけた比叡山延暦寺を焼き打ちしました。
 
 
焼き討ちといわれますが、実質的には「戦い」です。
 
 
これは当時、信長に敵対していた朝倉・浅井と結束した比叡山延暦寺の「僧兵たち」との戦いでした。
 
 
この前年、浅井長政の裏切りで大ピンチに陥った「金ヶ崎の退き口」が起りました。(その後「姉川の戦い」で勝利)
 
 
信長の人生はピンチの連続でしたが、この金ヶ崎の退却は本当に九死に一生のヤバイ体験です。
 
 
その浅井・朝倉と結んでいた延暦寺の僧たちは、僧とは名ばかりの武装兵でした。
 
 
彼らは肉食、飲酒、女色をむさぼるなど堕落した生活を送り、多くの僧は山ではなく坂本の町で暮らしていたのです。
 
 
その比叡山焼討については、こちらにくわしく書きました。合わせてどうぞ♪

    ↓


 
 

(3)長篠の戦い

 

 
1575年の「長篠の戦い」は、甲斐(山梨県)の戦国大名・武田勝頼(武田信玄の息子)との戦いです。
 
 
この戦いの特徴は、織田軍が大量の火縄銃を使った「三段撃ち」で勝利したと伝わることです。
 
 
当時、最強と恐れられていた「武田の騎馬軍団」を、この火縄銃作戦で破ったインパクトが大きいので、有名になりました。
 
 
でも、馬は機動力はありましたが、大将以外は突撃の際、馬から降りて戦っていたと分かってます。ドラマで描かれるような騎馬VS鉄砲隊のスペクタクルな騎馬戦は見られなかったんですね。(そもそも馬はめっちゃ高価で大事にしてました)

    ↓


 
 
 

(4)石山本願寺決戦

 

 
織田信長は、石山本願寺との戦いに10年もの月日を費やしてしまいます。石山本願寺は「寺」というより戦うために作られた「要塞」でした。
 
 
トップの顕如は大きな戦国大名並みの力を持ち、本拠地の大坂は富の集まる大商業地帯、その富を完全に手中に収めていたのです。
 
 
1571年、信長は「難攻不落」といわれた石山本願寺を攻撃しましたが、1000を超える鉄砲隊にはばまれました。
 
 
その後「兵糧攻め」に切り替えると、今度は毛利輝元が木津川から船で本願寺に物資の補給しこれをはばみました。信長は毛利水軍・村上水軍の連合軍と2度にわたって「木津川口の戦い」を戦っています。
 
 
2度目の戦いで勝利したとき、信長は顕如に和睦を持ちかけました。
 
 
それは、「顕如が本願寺を退去するなら、すべて者の罪を許す」というものでした。
 
 
1580年、顕如は降伏し本願寺を退去しました。
 
 
この本願寺との戦いがなければ、信長の天下はもっと近かっただろうといわれれています。

 
 

(5)本能寺の戦い

 

 
天正十年(1582年)、6月2日、信長の家臣・明智光秀が起こした謀反です。
 
 
戦力は諸説ありますが、数10名の信長勢に対し、1万5000以上の明智軍が本能寺を取り囲んだといわれます。
 
 
完全に包囲された織田信長は、本能寺に火を放って自害しました。このとき、小姓の森蘭丸(森3兄弟)ら多くの側近もともに討死しました。
 
 
本能寺でともに燃えた蘭丸と刀剣のエピソードをこちらでお伝えしています。

  ↓




 

 
 

織田信長の内政

 
 
織田信長は経済や流通、つまり経済発展もしっかり考えています。
 
 
尾張と岐阜を手にいれたことで、多くの石高も得られるようになりました。
 
 
信長が手掛けた代表的な経済政策が、こちらの2つです。

 
 

(1)楽市楽座の実施

 

 
「楽市楽座」とは、城下町の繁栄をはかる経済政策の1つです。
 
 
信長の行った楽市楽座は、それまで特別な権利を持っていた商人たちを排除して、新しい商人達から税金を取らずに、自由な取引の場を作るというものでした。
 
 
その目的は、新しい商人を育て経済を活性化させることです。
 
 
でも、新興商人の自由営業を認めることは、旧勢力の権利を奪うことでもあります。
 
 
それまで特別な権利を持っていた堺の商人、公家、寺社は、その「権利」を奪われることになったのです。
 
 
それらの人々からの大きな反発、敵対があったのは言うまでもありません。

 
 

(2)関所の廃止

 
 

 
「関所」は交通の要所に設置された施設です。
 
 
商人は「関所」を通るときに税金を払う必要がありました。
 
 
税金はなるべく払いたくないですよね。なので、当時の商人たちはなるべく税金を払わなくて済むように、「関所」を超えない範囲、地元だけで品物を取引するのが一般的だったのです。
 
 
つまり、「関所の廃止」は、品物の流通を活発にするために考えた政策だったのです。
 
 
比叡山延暦寺はこの「関所」を独自に設置し、京の都に出入りする商人から「税金」を取っていました。そういう所も信長はカチンときてたのでしょう。

 
 

織田信長の簡単年表


 
織田信長の代表的な戦いと経済政策について、お伝えしました。
それでは、最後に簡単に年表をまとめておきます。
 
 
・1534年(0歳)
尾張(愛知県)の織田信秀の長男として誕生。
 
・1546年(13歳)
元服。三郎信長と改名。
 
・1549年(16歳)
斎藤道三の娘・濃姫(帰蝶)と結婚
 
・1551年(18歳)
父・信秀死没。
織田家当主に就任。
 
・1557年(24歳)
弟・信勝と織田家の家督争い→
勝利
 
・1560年(27歳)
「桶狭間の戦い」
→今川義元に勝利。
⇒★「桶狭間の戦い」信長5つの勝因
 
・1562年(29歳)
徳川家康と同盟。
 
・1567年(34歳)
本拠地を岐阜城に。
 
・1568年(35歳)
足利義昭を支持。
15代将軍就任の手助け。
 
・1570年(37歳)
「金ヶ崎の退き口」
「姉川の戦い」
→浅井氏・朝倉氏に勝利。
 
・1571年(38歳)
「伊勢長島一向一揆」
「比叡山延暦寺焼き討ち」
・1574年
「長篠の戦い」
 
・1573年(40歳)
「室町幕府」滅亡。
 
・1575年(42歳)
「長篠の戦い」
→武田氏に勝利。
 
・1576年(43歳)
「安土城」建城。
 
・1580年(47歳)
石山本願寺の顕如、降伏。
 
・1582年(49歳)
「本能寺の変」
→自害。

 
 
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