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こんにちは。
 
動乱の幕末、だれもが貧乏くじと嫌がった「京都守護職」を引き受けた会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)。
 
 
彼は京都守護職になり尊王攘夷派を取り締まったことで恨みを買い、「戊辰戦争」で会津の悲劇を引き起こしてしまいました。
 
 
会津の領民からみるとどーなの?という気がしないでもないですが、この人はかなり好きです。
 
 
美形だからというのではなく(ちょっとあるけど)、あの不器用でアホともいえる実直さが武士らしいなと思えるからです。(武士が好き)

 
 

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エリート美少年だった少年時代

 

 
松平容保は江戸の高須藩邸で藩主・松平義建の6男として誕生しました。
 
 
そして、10歳のときに会津藩主・容敬の養子となり(家督相続は18歳)、会津で松平家の家風に基づいた帝王学を受けることになりました。
 
 
江戸で生まれ育った彼が国元の会津松平家の屋敷に迎えられたとき、会津家の人々は「おおっ、イケメン!」と騒いだそうです。(当時17歳)
 
 
江戸育ちだから垢ぬけてたのかな?
 
 
会津の家訓の中には、藩の祖である保科正之の強烈なメッセージがありました。
 
 
保科正之は徳川家光の弟(秀忠の庶子)で家康の孫にあたる人物です。
 
 
彼が残した家訓は「徳川宗家に忠義を尽くせ、それを破る藩主は私(保科正之)の子孫ではない」というもの。
 
 
それは、なにがなんでも徳川宗家をお守りするという「徳川家への絶対随順を唱える家訓」でした。
 
 
英才教育を受けた頭の固い容保の中で、会津の家訓は何をおいても守るべきものとなっていったのです。

 
 

なぜ京都守護職を引き受けた?

 

 
松平容保は京都守護職の任を受け、江戸の治安を守る役目を負いました。
 
 
京都守護職とは、各地から集まる尊王攘夷派の暴動を防ぎ、京都の治安維持に務めることを目的としたものです。
 
 
提案したのは、なんとあの薩摩藩の国父・島津久光です。
 
 
この京都守護職を引き受けたことが、会津の悲劇につながるのでした。
 
 
徳川慶喜松平春嶽から京都守護職の任を依頼された容保でしたが、容保自身は病弱で、また当時、会津藩の財政はとても厳しかったので、はじめは固辞していました。
 
 
でも、どうしても彼に京都守護職を押し付けたかったのか、慶喜と春嶽は礼の保科正之の家訓を持ち出して説得にあたります。(←この人たち、やらしいです)
 
 
「徳川宗家に忠義を尽くせ、それを破る藩主は私の子孫ではない」
 
 
会津藩ではこの家訓は絶対的効力を持ちます。慶喜らはこの家訓を持ち出して「保科正之公ならお受けしたはずだ」と容保に迫ったのです。
 
 
家訓を引き合いにだされた容保は断ることができず、ついに家臣の反対を押し切って京都守護職の任を引き受けてしまったのです。
 
 
あ~あという感じですが、これが会津の悲劇の引き金になるとは、この時点では誰にも予測はできません。
 
 
でも、これで断り切れない容保の実直さが、悲劇を回避できなくなるのです。もうちょっと融通きいても良さそうなんですが、この政治的な駆け引きのできないところがステキだったりして・・・

 

 

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孝明天皇のそばで御所を守る

 

 
京都守護職は、京の治安を守るのが任務です。その中心は京都御所でした。
 
 
松平容保は、その誠実な生真面目さと美しさ(孝明天皇はお稚児趣味)で、孝明天皇にも近習たちにもすぐに気に入られました。彼が参内すると女官たちがざわめいたそうです。
 
 
朝廷の人々は、世間知らずのくせに長年培った陰謀と駆け引きにはめっちゃ長けてますから、容保の爽やかな生真面目さに癒されたのかもしれません。
 
 

(1)外国と長州藩が嫌いな孝明天皇

 

 
孝明天皇は、とにかく外国が大っ嫌いという攘夷思想を持っていましたが、倒幕はまったく考えていない人でした。
 
 
にもかかわらず、当時、暑苦しく尊王攘夷を叫んでいた長州藩が、孝明天皇は自分たちと同じお考えだと吹聴して新しい時代を作ろうと動いていたのです。
 
 
孝明天皇にしてみれば、「一緒にせんとって!(するな)」という感じですよ。でも、長州は天皇大好き(尊王)、朝廷のためと思ってやっています。ちょっと勘違いストーカーっぽいです。
 
 
そんな孝明天皇の元に来たのが、この3人でした。
 
 
松平将軍後見職:一橋慶喜
京都守護職:松平容保(会津藩主)
京都所司代:松平定敬(桑名藩主)

 
 
孝明天皇はこの3人を信頼し、長州藩と尊皇派の公家を閉め出すことにしました。
それが「八月十八日の政変」です。
 
 
天皇の代が変わり、後に「朝敵」とされた彼らは、もともと天皇のもっとも近くにいた天皇から絶大な信頼を寄せられていた人たちだったのです。
 
 
徳川幕府への忠義第一だったはずの容保でしたが、なんだか朝廷への忠義のほうが大事になってきてるような気がせんでもないです。
 
 
ま、自分の利益しか考えていない慶喜(徳川家)より孝明天皇のほうが肩入れしたくなるのはわかりますけど。

 
 

(2)孝明天皇崩御で事態が急変

 

 
1867年1月、孝明天皇が急に発熱し天然痘の疑いであっというまに崩御してしまいました。
 
14代将軍家茂が病死し、15代将軍に一橋慶喜が就任してから半年ほど後のことでした。
 
 
この崩御のタイミング、どうみても怪しすぎますね・・・
 
 
もちろん倒幕派による暗殺が疑われております。
 
 
いずれにせよ、これで倒幕へと一気に流れが傾いて行きました。
 
 
慶喜による「大政奉還」「王政復興の大号令」、そして「戊辰戦争」へと突き進んでいったのです。
 
 
薩長(倒幕派)の力が強くなって、松平容保は京都守護職を解任されてしまったのでした。

 
 

会津藩と「新選組」の関係

 

 
会津藩は、京の治安を守る「新選組」を雇っていた藩です。
 
 
新選組隊士は、農民出身の荒くれ者の集まりでした。(初代局長の芹沢鴨は武士だった)
 
 
なぜそんな乱暴者を雇い入れたのか?
 
 
それは、やなり会津藩が財政難だったからです。会津藩は京都の治安維持にかかる支出をおさえるために新撰組を雇っていたのでした。
 
 
そして、やっぱり武士とはいえ、汚い仕事(人斬り)はなるべくやりたくなかったからです。
 
 
彼らは「新選組」に汚れ役を任せたのです。
 
 
そうして「新選組」は会津藩に従って「戊辰戦争」に参加することになりました。

 
 

「戊辰戦争」勃発後、会津へ

 

 
京都守護職を解任させられ、朝議からも閉め出された会津藩は、この新政府の対応に怒り心頭でした。
 
 
容保は家臣たちの怒りを抑えようとしますが、もはやどうにもできず、また薩長の挑発に乗って江戸の薩摩屋敷が放火されたことなどから、とうとう「戊辰戦争」が始まりました。
 
 
でも、「戊辰戦争」の初戦「鳥羽伏見の戦い」で、容保と慶喜は戦いが始まってわずか4日後、兵を捨てて船で江戸へ退却してしまったのでした。

 
 

会津の悲劇

 
 
「鳥羽伏見の戦い」に敗れて会津に戻った容保は、新政府軍に恭順の意を示しました。
 
 
でも、新政府はこれを拒否、容保を賊軍・朝敵とみなし追討令を出したのです。
 
 
そのため会津は「奥羽越列藩同盟」の諸藩と一緒に新政府への徹底抗戦を覚悟しました。
 
 
これが「会津戦争」です。
 
 
でも、結局新政府軍を防ぐことはできず、会津藩は、会津若松城で籠城することになりました。
 
 
籠城は1カ月ほど続きましたが、協調していた他藩も敗退していて、援軍は期待できませんでした。
 
 
そうして、会津藩も米沢藩の勧めで最後は降伏することになったのです。
 
 
でも、そのときには町の大部分は焼き尽くされ、領民の多くが死亡しました。
 
 
会津藩は領民全てに武器を持って戦えと命じていたため、10代の少年たちから女子まで多くのものが戦死したのです。
 
 
10代の少年で結成された「白虎隊」、薙刀を持った若い女性による「娘子隊」の悲劇は、今もよく知られています。

 
 

その後の松平容保

 

 
新政府軍に降伏した後、松平容保は妙国寺へ移され、その後、東京の池田邸に預けられました。
 
 
明治に入り和歌山藩や斗南藩に預け替えとなりましたが、東京に移住してからは蟄居を解かれています。
 
 
明治十三年(1880年)には日光東照宮の宮司に任命されました。
 
 
何よりも徳川家のためにという家訓を守り続けた容保にとって、徳川家康を祀る東照宮の宮司は誉れ高いことだったでしょう。
 
 
明治二十六年(1893年)、彼は東京の自宅で59年の人生に幕を下ろしました。
 
 
晩年は歌道が趣味で、静かに和歌つくりを楽しんだそうです。
 
 
彼は孝明天皇からいただいた「手紙」と「和歌」を竹筒に納めて首にかけ、死ぬまで肌身離さず大切にしていたそうです。

 
 

松平容保の簡単年表


 
・1835年(1歳) 
美濃高須藩主・松平義健の6男として江戸四谷藩邸で誕生
 
・1846年(12歳)
会津松平家の養子になる
 
・1851年(17歳)
会津に行き文武の修行をする
 
・1852年(18歳)
会津藩主・松平容敬死去(47歳)
→会津藩主に就任
 
・1862年(28歳)
京都守護職に就任
 
・1868(34歳)
会津戦争で敗北
 
・1880年(46歳)
日光東照宮の宮司に就任
 
・1893年(59歳)
病没。(肺炎のため)

 
 
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