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こんにちは。
 
 
幕末の戊辰戦争で、西郷隆盛に「軍事の天才」と言われた男がいました。
 
 
長州出身の大村益次郎
 
 
戊辰戦争の局地戦「上野戦争」で3千の「彰義隊」をわずか1日で壊滅させた戦略家です。
 
 
そんな大村益次郎は武家出身ではなく、医者の家に生まれ、始めは医者になろうとしていた人でした。

 
 

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伊達宗城に招かれ宇和島藩に

 

 
大村益次郎(おおむらますじろう)は1824年5月30日、周防国(山口県)の村医者、村田家の長男として誕生しました。
 
 
始めは家業を継ぐ予定で、シーボルトの弟子だった梅田幽斎から蘭学と医学を学びました。
 
 
その後、1843年に儒学者の広瀬淡窓の私塾で漢籍や算術を学び、1846年には大阪の緒方洪庵の適塾で学んでいます。
 
 
適塾には、福沢諭吉橋本左内も学んでいました。
 
 
そんな秀才たちの中でも彼は成績は優勝で、適塾の塾頭になったのでした。

 
 

始めは蘭学者・翻訳家として活躍

 

 
1853年、幕末の四賢公の1人・宇和島藩主の伊達宗城に招かれ、蘭学と兵学の講師をしました。
 
 
そして、伊達宗城の元で洋式兵学書の翻訳や蒸気船の設計・開発などにも携わったのです。
 
 
1856年、大村は伊達宗城の参勤交代のお供で江戸に向かいました。
 
 
3年前に黒船が来航した江戸では、蘭学や兵法学に優れた人を必要としていたのです。
 
 
そこで大村は蘭学、医学、兵学を教える「鳩居堂」という私塾を開き、幕府の洋書を翻訳する役場に勤め、才能を高く評価されました。
 
 
1858年に長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と知り合った縁で、1860年には長州藩士になりました。
 
 
桂小五郎は、人を見抜く力に長けてますね。ちょっと会っただけで大村の力を見抜いてヘッドハンティングし、天才軍師を手に入れたのですから。
 
 
桂はその後、人付き合いが下手くそな大村の面倒をよくみてあげています。

 
 

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長州藩士として新政府軍の責任者になる

 

 
幕府と対立し倒幕へと突き進む長州藩の中で彼は実力を認められ、とうとう長州藩の軍の責任者になりました。
 
 
長州藩は、このときすでに高杉晋作が身分を問わない兵団の「奇兵隊」を結成していました。
 
 
そういえば、高杉晋作は大村益次郎のことを「火吹きダルマ」というあだ名で呼んでいたそうです。高杉に「火吹き」と思われるほどって・・・
 
 
大村益次郎は高杉から奇兵隊の軍事指導を任されて、烏合の衆の市民軍を実戦に使えるよう編成して訓練したのでした。

 
 

神がかり的な軍事の指揮官

 

 
大村益次郎は、長州の市民兵をきっちり訓練し、近代兵器を使った攻撃の戦術をたたき込みました。
 
 
1868年に「戊辰戦争」の初戦、「鳥羽伏見の戦い」が起りましたが、大村はそのときはまだ時期早々だと反対していました。
 
 
しかし、戦いに参加すると、大村が作り上げた新政府軍の軍隊は、幕府軍をことごとく撃破して進軍を続けたのでした。
 
 
大村益次郎の軍事面のすごいところは、誰かに兵学を習ったのではなく書物で得た知識のみなのに、それを完璧に実戦に応用できたことです。
 
 
立てた戦略から、敵が敗走する時期や必要な弾薬の量を的中させ、兵糧の量まで気を配るという神がかり的な事をやってのける司令官だったのです。
 
 
それがよく分かるのが「彰義隊」と新政府軍の戦い「上野戦争」での戦いぶりです。

 
 

上野戦争で彰義隊をぶっ潰す!

 

 
「江戸無血開城」で徳川慶喜が水戸へ蟄居しても、それに承知しない旧幕臣たちが、各地で新政府軍と戦っていました。
 
 
それらの旧幕臣の一派「彰義隊」(約3千人)が上野寛永寺に立てこもって新政府軍と交戦していたのです。
 
 
江戸は「無血」どころか無法地帯のように物騒な状態になっていたのです。
 
 
そんな江戸の様子を見かねた佐賀藩の江藤新平が、このままではいけないと京都の新政府に報告しました。
 
 
放置しておくとヤバそうだと思った京都の新政府は、西郷に代わる司令官として大村益次郎を江戸に派遣しました。
 
 
江戸についた大村は参謀たちと作戦会議を開きました。そのとき夜襲を提案する者もいたのですが、大村はこれに反対します。そのときすごい口論をしたのが、薩摩藩の海江田信義(有村俊斎)です。
 
 
薩摩と長州は、薩長同盟で仲良くなったと思ったら大間違い、かなり「仲が悪い」です。
 
 
海江田はとにかく短気な人だったそうですが、大村も同じく短気、でも、彼はすごく頭が良くて合理的思考のできるエリートです。そして、バカを馬鹿にする冷たい一面を持っていました。
 
 
海江田は、口論の際にかなりバカにされたようです。(仕方がないと思いますが)
 
 
ま、すごい口喧嘩をしていたので、周りの人にも「犬猿の仲」だなーと思われたのでした。
 
 
最終的に、大村は自分の戦略の根拠をしっかりあげ、他の者たちを納得させました。そして彼は「上野戦争」で「彰義隊」をたった1日で壊滅させたのです!
 
 
彼の戦略は単純なものです。それは「彰義隊」を包囲して一方向だけ逃げ道を空けておくというもの。
 
 
過去のいろんな戦いに使われてきた戦略です。
 
 
ただ、彼の恐ろしいところは、逃げ道にやって来た「彰義隊」に一切の手加減をせず、徹底的にぶっ潰したところです。
 
 
そのやり方は、とにかく徹底的!
 
 
「彰義隊、ぶっ殺す!!!」
 
 
という感じで、佐賀藩から借りたアームストロング砲をぶっ放して集中砲火を浴びせたのでした。
 
 
その結果、上野周辺は見事に焼け野原になり、「上野戦争」はたった1日で終了しました。
 
 
その後の「戊辰戦争」の数々の戦いも、大村益次郎の戦略どおり、予想したとおりに進んでいき、西郷隆盛が「軍事の天才」と舌を巻いたそうです。

 
 

京都で襲撃され死亡

 

 
しかし、大村の活躍は長くは続きませんでした。
 
 
彼は明治維新後、軍の行政機関である兵部省の次官に就任しました。
 
 
そして、これからという明治二年(1869年)9月4日、京都・三条木屋町の旅館で襲撃されたのです。
 
 
彼はこの時に足を斬られて負傷し、その傷から細菌が入って敗血症になり、約2ヶ月後に亡くなってしまったのです。(享年46歳)
 
 
彼を襲った犯人は、長州征伐の頃からすでに長州藩の幹部だった尊皇攘夷派の神代直人(こうじろなおと)ら十数名でした。
 
 
彼らは大村の急進的な改革に不満を持つ士族でした。すぐに見つけられて、自害した者以外は逮捕され処刑されることになりました。
 
 
ところが、捕まった犯人の一部が処刑される日、海江田信義(有村俊斎)が処刑に反対し、処刑停止命令を出して処刑が中止されたのです。
 
 
この一件と、もともと「犬猿の仲」だったことから、海江田信義がこの暗殺の黒幕なのではとささやかれるようになりました。
 
 
真相は藪の中ですけれど・・・
 
 
大村益次郎の遺骨は、故郷の鋳銭司と靖国神社に合祀されました。
 
 
靖国神社には、彼の銅像が立っていますよ。
 
 
もしも彼がその後も活躍していたら、日本の軍部はどうなっていたでしょう。
 
 
そう思うと惜しまれるのでした。

 
 

    
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