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こんにちは。
 
 
「西郷どん」1話で、ひときわ異彩を放った薩摩のカリスマ島津斉彬
「御家人斬九郎」がはまり役だなーと思う渡辺謙さんの破天荒・斉彬がシブかっこかったです。
 
 
彼は薩摩藩主の嫡男でありながら、江戸の藩邸育ちなのです。しかも、ひいおじいちゃんっこだったので、父親となじみがありません。
 
 
そんな一風変わった島津斉彬の特徴について、今回はお伝えします。

 
 

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(1)「江戸育ち」なので薩摩(父)となじみが薄かった

 

 
島津斉彬は、薩摩藩主・島津斉興の嫡男として、江戸の薩摩藩邸で生まれます。
 
 
斉彬の母(斉興の正室)は、高い教育を受けた女性で、お嫁入りのときにもたくさんの書籍を持参していました、そして、赤ちゃんのときから斉彬を自分で育て(たいてい嫡男は乳母や近侍が育てます)、読み書き、和歌、茶道、絵画などの指導も自ら手がけました。
 
 
また、斉彬の曾祖父・重豪(しげひで)は、西洋や中国の文化に強い関心を持ち、オランダ語や中国語を話せた人です。薩摩にシーボルトがやってきたとき、斉彬は重豪に連れられて会っています。
 
 
斉彬は、この2人の愛情をたっぷり受けて、江戸で高い教養を身につけました。
 
 
当時から、「二つ頭(びんた)」とほめ称えられるほどの頭脳明晰、立派な体格で声も大きく、強い存在感のある魅力的な人でした。
 
 
「西郷どん」で、他の人たちが、強い薩摩の方言を使う中、渡辺謙さんだけが「標準語」だったのは、斉彬が江戸育ちで江戸の言葉を使う人だったからなのです。
 
 
彼は、幕府筆頭老中・阿部正弘とも仲良しでした。
 
 
そんな優れた人なのに、藩主になったのは43歳のときなのです。そのわけは、後でお伝えします。

 
 

(2)父・斉興との確執で43歳まで藩主になれず

 

 
斉彬は、当時の日本の中で、おそらくもっとも新鋭的な思想を持っていた人です。
そして、新しい価値観人を持つ人は、古い価値観を持つ人と相容れないことが多いです。
 
 
斉彬の場合、父の斉興と相容れないというか、父に嫌われていたのです。斉興は、せっかく調所広郷が泥をかぶってまで回復させた藩の財政を、斉彬の「蘭癖」でまた莫大な費用を使うのではないかと懸念したのです。
 
 
それは、もっともな考えでした。なぜなら、薩摩藩の財政が破たんしかけたのは、曾祖父・重豪の「蘭癖」による浪費も大きな原因だったからです。
 
 
確かに、斉彬が藩主になってからの「集成館事業」は、莫大な費用を要しました。集成館の建物を写真で見るだけでも、すごいなーと思えます。異人館みたいですよ。
 
 
後継ぎ争い「お由羅騒動」が起こったのも、斉彬の藩主就任が43歳になってからだったのも、父子の確執が大きな理由です。

 

 

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(3)西洋文化・中国文化に精通し、日本の近代化を図る

 

 
曾祖父の影響を強く受けた斉彬は、外国の文化に強い関心を持ちます。
 
 
彼の凄い所は、外国優れた「物」に興味を持つのではなく、その背景にある文化や技術そのものを輸入しようと試みたところです。「西郷どん」の斉彬が、和洋折衷の妙な服装をしているのは、「蘭癖」を象徴させたものでしょう。
 
 
清が強い軍隊を持つイギリスに侵略された(アヘン戦争)と知って、斉彬は大変なショックを受けます。そこで、新しい技術を使った武器を持つ外国に侵略されないためには、日本も最新の技術を取り入れて強い国にするべきだと考えたのです。
 
 
斉彬は、まず、外国の軍隊が海から攻めてきて応戦できるように、大砲をつくるための設備を島津家の別荘の裏の竹やぶにつくりました。「西郷どん」1話の小吉たちとの出会いのシーンは、これをモチーフにしてますね。
 
 
その後、大砲を備えた軍艦を造ろうとしますが、外国の書物に「蒸気を動力にした蒸気船が優れている」と書かれていたことから、一度も実物を見たことがないのに図面だけで蒸気船を造りました。
 
 
43歳で藩主になってからは、裏の竹やぶを中心に「集成館」という大工場群を作りました。
 
 
そして、ガス灯を日本で初めて作ったり、電信や写真など、欧州で開発された新しい技術を進んで実験し、インフラの整備の完成に尽力しました。
 
 
集成館事業のうち、「製鉄」「造船に関わる機械工場」「反射炉跡」など3つの資産が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界文化遺産に登録されています。

 
 

(4)薩摩の文化・伝統工芸品を通商に活用した

 

 
列強の脅威を感じる幕末の世、斉彬は富国強兵を掲げて、「日本を強く豊かな国」にしようと尽力しました。
 
 
その試みの中で、薩摩切子が海外交易品として開発されたのです。
 
 
斉彬は、イギリスやボヘミア、清の技術を元にして、さらにそれを凌駕する「ぼかし」などの意匠を施した工芸品を作りあげたのでした。
 
 
でも、「集成館事業」は斉彬の急逝により縮小します。そして、1863年に起こった薩英戦争で、工場は焼失してしまいました。薩摩の硝子工芸は、その後、絶えてしまったのです。
 
 
薩摩切子が幻となってから約100年後、斉彬が築いた世界に誇るガラス工芸を、是非とも再興させたいとの思いから、1985年にそのゆかりの地、鹿児島市に薩摩ガラス工芸が設立されました。
 
 
そして、薩摩切子は、1世紀の後に鹿児島の地に甦ったのでした。
薩摩切子は、こういう物です。
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(5)優れた人材を身分によらず採用した

 

 
斉彬は、優れた人材を育成する能力がありました。
彼の名言にこういうものがあります。
 
 
「付和雷同で意見を持たぬ者、十人が十人とも好む人材、彼らは非常事態に対応できない。偏屈な男こそ国の宝である」(島津斉彬)
 
 
際立った1つの才能ある者を、身分を問わず採用し、自分の志を継がせたのです。
 
 
その1人が、集成館事業の中心人物でガス灯を発明し、「日本電気通信の父」と呼ばれる寺島宗則(松木弘安)でした。
 
 
寺島は、物理学、語学など多くの学問に秀で、薩摩きっての頭脳でした。産業革命児のイギリスに留学し、後に薩英戦争時の交渉役になって外交官の道を歩みます。彼とともに留学した後の鉱山王・五代友厚や、後の薩摩藩家老・小松帯刀も斉彬が抜擢した偏屈な男たちでした。
 
 
もう1人、忘れてはいけないのが、お庭係として、下級武士だったのを取り上げられた西郷隆盛ですね。斉彬が西郷に自分の思想を継ぐよう導いたのは、よく知られています。
 
 
1人では到底できない大事業を、託せるスタッフを育てるのは、上に立つ者にとって、とても大切な力だと思います。

 
 

まとめ


薩摩藩主・島津斉彬の5つの特徴を、最後にまとめておきます。
父親の斉興との関係がよければ、彼はもっと早くから薩摩の近代化を図って活躍できたでしょう。
 
 
(1)「江戸育ち」なので江戸の言葉を話、薩摩(父)とはなじみが薄かった
(2)父・斉興との確執で43歳まで藩主になれず
(3)西洋と中国文化に精通していて、日本の近代化を図った
(4)薩摩の文化・伝統工芸品を通商に活用した
(5)優れた人材を身分によらず採用する度量があった

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