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幕末の過激思想家・吉田松陰。
彼は、教えたがりの先生だったので、多くの名言を残しています。
何かを成し遂げるために、大事だなと思う名言がこちら・・・
夢なき者に理想なし、
理想なき者に計画なし、
計画なき者に実行なし、
実行なき者に成功なし。
故に、夢なき者に成功なし。
吉田松陰は、思い立ったら即実行しすぎて危なっかしい人でしたが、なかなか動けない私のような人に、この言葉は効くなあと思うのでした。
彼が弟子たちに常に言っていたのは、「実行第一」ということです。
今回は、吉田松陰の行動力に注目していきます。
「安政の大獄」で散った吉田松陰の松下村塾は、一体どんな私塾だった?
「実行なき者に成功なし」ですね
松下村塾では、兵学や武士の心得など、一般的な私塾と同じようなことも教えましたが、彼は、何よりも読書を重んじたそうです。もともと秀才ですからね。幼いころから習得していた『孟子』の教え(儒教)「人の道」についても説いています。
先程の名言
夢なき者に理想なし、
理想なき者に計画なし、
計画なき者に実行なし、
実行なき者に成功なし。
故に、夢なき者に成功なし。
「夢」→「理想」→「計画」→「実行」→「成功」
「夢」から「成功」までの間に、いくつか越えなければいけないステップがありますね~。
私が難しいと感じるのは、「計画」と「実行」です。
「計画」というのは「具体化」ですね。
漠然とした(抽象的)な夢や理想を、実際に取り組むべき計画に落とし込む必要があります。
実は、作文の書き方でも、中学生になると、抽象的な課題(テーマ)を自分の体験に「具体化」するという、練習をするんですよ。
これ、慣れないうちは書きにくそうです。
具体化できたら「目標」が定まるので、成功するためにすることは、後は「実行」のみですね。
で、これがまた、なかなかできなかったりするんですよね~。
私は、ちんたらちんたら各駅停車でしか進めません。
松陰先生は、この「夢」→「成功」を新幹線で駆け抜けたような人です。
その変革のスピードに、周りが追い付かなくて、夢は実現しませんでしたが、彼が斬首されたことで、一部の弟子たちの中に生き続けるんですね。
そういう意味では、殉教に近いなーと思います。
吉田松陰が、よく弟子に伝えたのは、
「学んでも実行に移さなければ何にもならない」
ということでした。
「実行」の部分が大事と言ってます。
この「何事も行動に移してこそ価値が出る」という考え方は、佐久間象山、福沢諭吉など、この時代に社会を変えようとした偉人が、口をそろえて言っている事ですよ。
「新しい事を始めるのだから、失敗するか成功するかはわからない、何事もやってみなければわからないのだ、行動しながら考えろ」ということです。現代でも、もちろん、参考になる大切な言葉だと思います。
吉田松陰はいつも全力投球で、ひたすら真っすぐ突き進みました。
そのため旗色をうかがう柔軟性に欠けていたのです。
過激すぎて弟子に本気で心配される
松陰は、自分に正直な人で、思ったことをすぐ言葉にして、すぐ行動に移す直情的な面がありました。
言う事成す事、あまりにも過激すぎて、「それ危ないから!」と、弟子たちから本気で心配されるほどです。
さすがに、「老中の間部詮勝を暗殺するから、武器をください」と長州藩に直接お願いしたのには、みんなびっくりだったでしょう。テロですかい・・・?
もちろん、すぐに投獄されますが、松陰はめげません。このまま好き勝手にさせておくと、彼だけでなく長州藩も危なくなるかもしれないと思った高杉晋作ら弟子たちから、「もっと自重してください」という内容の血判状を渡されました。
高杉晋作にやりすぎと思われる先生ですからね!
相当ぶっ飛んだ人ですよ。
でも、そんな弟子たちに逆切れして、彼はハンガーストライキを決行しています。ほんと、困った人です。
結局、彼は、なんだかんだと問題を起こしまくって、5回も投獄されたのでした。
地元の人からは村八分だった?
実は、吉田松陰が亡くなった後、松下村塾の塾生たちとその家族は、地元の人からは嫌われ、村八分の状態だったそうです。
このことは、松陰四天王の1人・入江九一の弟で、逓信大臣などを勤めた野村靖が回顧録に書き残しています。
弟子の多くが、後に明治新政府の要人になったので、現代では彼らは英雄的な扱いを受けていますが、当時の地元の人には、テロリストのような「乱民」と思われていたのです。
そもそも先生が、脱藩したり、密航しようとして逮捕されたり、老中暗殺未遂を企てたりして、5回も投獄された政治犯です。幕府側から見ると、テロリスト養成所かと思われても仕方がないような塾でした。
塾のエース・久坂玄瑞は、「禁門の変」で武力で御所を襲い、敗れて自刃しています。
このとき長州藩は「朝敵」とみなされ、幕府から征伐を受けました。
つまり、「朝敵を輩出した塾」だったんですよ、当時は。
その後、明治時代になってからも、地元の萩の人たちの目は、厳しかったようです。
維新後の士族の反乱「萩の乱」の首謀者・前原誠一もこの塾の出身でした。
血生臭い事を企てる危ない連中と思われても、仕方がなかったと思います。
松陰やその弟子たちが、日本の行く末を想っていたことなど、庶民にはうかがい知れないことだったでしょう。
おわりに
吉田松陰は、弟子に「諸君、狂いたまえ」という言葉を残しています。
この言葉は、「常識に捉われるな、狂ったように自分の信じる道を突き進め」という意味です。
この言葉、諸刃の剣ですね。
「信じる道」がどんな道かによって、えらく変わります。
反社会的なものだったら大変な事になりますよ。
吉田松陰は、この言葉の通りに生き、その思想は、彼の弟子たちに受け継がれたのでした。
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