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こんにちは。
幕末の薩摩の名藩主・島津斉彬は、幼少時から教養のある母・周子(弥姫)の英才教育を受けていたため、たいへん賢い子供でした。
「蘭癖大名」と呼ばれた曾祖父の重豪(しげひで)にその聡明さを見出され、江戸で彼からオランダ語や中国語、外国の事物について、たくさん教え込まれたのでした。
斉彬は、すっかり重豪なみの「蘭癖大名」になっていました。
今回は、そんな外国の事情に精通していた島津斉彬の数々の名言について、お伝えします。
島津斉彬の人材の見極め方がわかる名言
この言葉から、島津斉彬が非常に理性的に人との関わろうと、心がけている人だったとわかります。
彼は斬新な考え方を持っていた人なので、保守的な人には本気で疎まれ、敵対されていました。「父親」がその最たる者だったというのが不幸です。
それでも、後継ぎ争いで争った異母弟の久光と良い関係を築いていますし、「お由羅騒動」の反対派を厳しく処分することもありませんでした。
人と国(薩摩)をうまく統治していくためにどうするのが最善か、それを第一に考えたのですね。本質を見極める力があった人だと思います。
頑固で偏屈なヤツがおもしろい!
島津斉彬は臣下の中で偏屈な者の中からこれは!と思う人物を見出し、低い身分でも登用しました。
よく知られているのは、下級藩主だった西郷吉之助(隆盛)です。でも、役人の不正を糾弾した同調圧力にめげない西郷に向かって、斉彬は「お前は視野が狭い!」ととがめました。
一方で、実は斉彬は西郷の持つ頑固さは、これからの薩摩には必要なものと考えていました。
もう一人、斉彬が取り上げた逸材に、小松帯刀(こまつたてわき)がいます。
小松帯刀は、若くして薩摩藩の家老に抜擢され、明治維新の実現に導いた功労者です。
彼は、幼い頃からめちゃくちゃ勉強好きで、楽器(琵琶の演奏)が大好き、体を壊すまで寝食を忘れて勉強し続ける子供でした。
そして、虚弱体質だったので、武道はいまいちでした。
「強い男になれ!」と育てられる薩摩の武士社会の中では、かなりの変わり者で、本来ならそんなに出世の見込みはなかったでしょう。
でも、そんな小松の噂を耳にし、興味を持った斉彬は、彼を呼び出して外交に関する意見を自由に言わせたのです。
小松の意見は、藩主を外国へ密航させるという大胆なものでした。
それを「おもしろい!」と思った斉彬は、自分は無理ですが、優れた薩摩の若者を留学生としてヨーロッパに派遣させようと考えました。その立案を任されたのが小松だったのです。
小松帯刀は、斉彬の死後、16人の留学生をイギリスに送り出すことに成功しました。
こちらの記事の松木弘安は、その1人です。松木は1862年に薩摩藩士として初の幕府の「文久遣欧使節団」の一員に選ばれ帰国、1865年に「薩摩藩英国留学生」としてイギリスに留学したのでした。
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寺島宗則(松木弘安)・集成館事業を牽引し外交官になった薩摩の秀才
このように薩摩藩にとってたいへん功績のあった人ですが、残念ながら小松帯刀は体が弱く、1870年に病死してしまいます。もしも健在だったら、大久保利通と共に薩摩の代表を務めていたでしょう。
指導者は決断力がなければならぬ!
漢文の書き下し文みたいですが、意味は、「勇気をもって決断できない人は、事を成し遂げることはできない」という意味です。
「思い切って決断できない人は、仕事のできない指導者だ」ということですね。平和な世ならいざ知らず、幕末のような動乱期に指導者が優柔不断なのは最悪です!
指導者が決断する人でなければ、その手足である藩士が動けません。
斉彬の残した言葉を見ると、彼が当時の日本でおそらくもっとも西洋やアジアの近隣国に通じていた藩主だったといわれるのに納得できます。
国を統治するのは人民を統治する事こと!
人身の和は政治の要諦である
国政の成就は衣食に窮する人なきにあり
民の暮らしを第一に考えなければ、国を正しく治めることはできないというのは、多くの優れた君主が残している言葉です。
島津斉彬が、政治家として国を統治し、人民が飢えないようによい社会を作ろうとしていたのが、すごくよくわかります。
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