この記事を読むのに必要な時間は約 13 分です。
こんにちは。
新選組の中では珍しく?「槍の名手」として知られる原田左之助。
彼は、豪胆で短気だけど憎めない好青年として、小説やドラマで描かれます。
槍は重い得物なので、かなりの腕力の持ち主でないと使いこなすのは、難しいですね。でも、自在に操れると、刀よりも長いので、戦いでかなり有利になります。
実際の彼は、どんな槍を使っていたのでしょう。
目次
原田左之助の槍とその流派
新撰組で活躍し続けてきた原田左之助の愛用の槍は、どんな槍でしょう?
彼の槍術の流派は、「種田宝蔵院流槍術」と言われています。
でも、流派の名前、ちょっと変なんですよ。
原田左之助は、新撰組の7番組組長の谷三十郎の槍道場で「種田流槍術」を学び、免許皆伝の腕前だったといわれます。
また、「宝蔵院流槍術」という名の槍術の流派もあります。
あれ? 合体してる???
どうやら、彼は体得したのは「種田流」ですが、「宝蔵院流」の得物の「十文字鎌槍」を使って戦っていたそうなのです。
おそらく、自分で2つの流派の「技」と「得物」を組み合わせて戦うアレンジをし、「種田宝蔵院流槍術」と名乗っていたのだろうといわれているのです。
面白いことをしますね。
彼の槍はかなり長いので、「池田屋事件」のような屋内の合戦の場合は、戦いにくく不利になります。実際、池田屋では、長めの刀を得物にしていたそうですよ。
一方、屋外での「油小路事件」のときは、槍を持って戦いました。
このように、TPOによって槍と刀を使い分けて戦っていたんですね。
彼は、最期の様子もよくわかっていないので、愛用の槍や刀などは、残念ながら見つかってはいないのです。
「腹切り」経験あり?の超短気な性格
原田左之助は、伊予国松山の中間・原田長次の長子として生まれました。
15歳ぐらいのとき、松前藩の江戸中屋敷で小使として働いていたそうです。
その頃から美男子で、そして、当時からものすごーく短気な性格だったそうですよ。
左之助には、有名な腹切りのエピソードがあり、本人は酔えばそれを自慢にしていたそうです。
それは、国許にいたある日、彼は某武士とちょっとしたことから口喧嘩になりました。相手の武士に「腹を切る作法もしらねぇ下司野郎がーっ!」と罵られたのです。
その言葉にカッとなった左之助は、「それじゃぁ、見せてやる!」
と、裸になって刀を抜き、腹を一文字にかっ切ったのでした。
傷は浅くて、命には別状はありませんでした。
でも、それ以来、お腹に「一文字」の傷が残ったのです。
左之助はそれを武勇談のように楽しそうに語り、酔うとお腹を見せて自慢していたそうです。また、それで、自分の紋を「丸に一ツ引き」に変えたともいわれますよ。
単純で楽しい人っぽいですね。
その後、彼は20歳ぐらいで出奔し、試衛館の食客となります。
新選組10番組組長になり大活躍
試衛館の食客になってから、近藤・土方・沖田らとともに行動することが多くなった左之助は、彼らとともに上洛することに決めました。
彼は、種田流鎗術を収め、試衛館から上洛した8名の中で、唯一の「槍の使い手」でした。
そして、新選組が結成してからは、10番組組長を任されました。
10番組の組長ということは、殿(しんがり)の将ということです。
新選組が7番組までだったときは、7番組の組長で殿を務めていることからも、かなり重用されていたとわかりますね。
新選組での活動は「禁門の変」で戦い、芹沢鴨らの粛清にも参加しています。
「池田屋事件」では土方隊にいて、池田屋惣兵衛が逃がした長州藩士を、裏から回って槍で仕留めました。そして、この功で17両の褒賞金を賜りました。
高台寺党・伊東甲子太郎の証言から、「坂本竜馬暗殺の容疑者」とうわさされたこともありましたが、これは冤罪だと考えられています。
伊東甲子暗殺後の「油小路事件」では、敵方になっていたけれど、試衛館以来の同士だった藤堂平助を逃がそうと試みました。でも、平助は事情を知らない他の隊士によって、斬殺されてしまったのです。
また、このとき両手に刀を持って、仲間を逃がすために立ちはだかった服部武雄に、槍で応戦して勝ちました。
私は、このとき左之助と対峙した服部武雄が、新選組で活躍していたら最強だったかもしれないと、ちょっと思っています。
↓
新選組・最強剣士は一体誰?例の三人を考証してみた結果がこちら!
組長の中で唯一の正式な妻帯者だった?
原田左之助は、戦いの絶えない新選組の中ではめずらしく妻子持ちだったんですよ。新選組の幹部のなかで唯一、在京中に正妻(おまさ)を娶り、息子(茂)をもうけています。
彼は、とっても愛妻家だったそうなんですよ~。
小説やドラマ、アニメなどで優しいキャラクターなのは、そういう史実からきているのでしょう。
「鳥羽伏見の戦い」で敗けた後、新選組は京を去ります。
妻や息子と離れなければならなかったときは、悲しみもひとしおだったでしょうね。
新選組離脱後、満州に逃れたという説あり
京の都を出てからは、東へと転戦の日々が続きました。
「甲州勝沼の戦い」で官軍に負けた後、近藤・土方と意見が食い違って仲違いします。
そして、そのまま永倉新八らとともに、新選組と袂を分かちました。
みんな、バラバラになっていくんですよね。
その後、永倉の「靖共隊」に参加して、会津に向けて進軍しましたが、なぜか途中で隊を離脱し、江戸に戻ってしまったそうです。
そして、そのまま江戸で「彰義隊」に参加して、上野戦争で戦死したそうです。
享年29歳でした。
原田左之助の死は、動乱の世であったこともあり、はっきり確認されていないのです。
上野で銃弾に倒れて数日後に没したというのが定説ですが、満州に逃れて馬賊となって活躍したという都市伝説のような逸話も残っているのです。
中国大陸に渡って生き延びていたという伝説が残るのは、それなりに強い人や人気のある人物が多いですね。
原田左之助も、そういう人物だったのでしょう。
【関連記事】