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こんにちは。
 
 
今回は、ずっと5代将軍綱吉の傍らにいる典型的な悪役フィクサーのイメージを持つ柳沢吉保(やなぎさわよしやす)について。
 
 
彼は本当に評判通りの悪者だったのでしょうか?
それとも、悪役を引き受けた忠実な家臣だったのでしょうか?
 
 
綱吉との関係などいろいろ気になる点の多い人物ですが、この記事ではさらりと生涯についてお伝えします。

 
 

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柳沢吉保の生い立ち

 

【柳沢吉保】

 
1658年、柳沢吉保は上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として生まれました。そう、彼はただの一藩士の息子だったのです。
 
 
長男でしたが、晩年に生まれた庶子だったので、柳沢家の家督は義兄(姉の夫)の柳沢信花が継ぎました。家督もつぐことができなかったのです。
 
 
それで、彼は当時、館林藩主だった徳川綱吉に小姓として仕えました。(綱吉は遅咲きの将軍です)
 
 
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彼は見目麗しく、とても気配りのできる少年で、綱吉のお気に入りナンバー1になりました。
 
 
そして、徳川綱吉が5代将軍に就任すると、柳沢吉保は幕臣の小納戸役に任ぜられたのです。
 
 
なぜか綱吉の寵愛を受けまくっていた吉保は、そこからとんとん拍子に出世していきました。
 
 
まず、やりたい放題の気まぐれ綱吉が作った「側用人(そばようにん)」という将軍様直属の秘書的な役職につき、1万2千石の大名になりました。
 
 
その後は老中格になり、大老格になり、最終的に甲府藩15万石の藩主にまで上り詰めました。ただの一藩士の息子が・・・。
 
 
当時、甲府は江戸防衛の要地でした。だから、幕府直轄領地か、徳川一門の所領とされていたのです。それを綱吉から拝命したのですから、それだけ将軍に深く信頼されていたということです。
 
 
ところが、1709年に綱吉が死没すると、次の将軍の家宣は綱吉の取り巻きの重臣たちを遠ざけるようになりました。トップが変わると、こういうことはよくあります。
 
 
このままでは失脚してしまうかもと危機感を持った柳沢吉保は、そのとき家督を嫡男の吉里に譲って幕府の要職を辞し、隠居を決め込んだのです。
 
 
この判断力と行動の速さは、たいしたものだと思います。
 
 
家宣が重用した新井白石に嫌われていたから失脚したという説もありますが、隠居したことで大きな波風は立たず、柳沢家は15万石のまま存続しました。
 
 
その後はゆったりと雅な隠居生活を送っていたようです。1714年、柳沢吉保は亡くなりました。享年57。

 
 

柳沢吉保が綱吉に寵愛されたわけ

 

 
柳沢吉保は、舘林藩主だった綱吉の小姓として仕え、そのままずーっと共に出世コースを歩みます。
 
 
最終的には甲府15万石の大名に取り立てられ、大老格になりました。
 
 
それだけ寵愛された理由は、どこにあったのでしょう?
 
 
実際の彼の人物像は、「水戸黄門」や「忠臣蔵」などで悪役として描かれる権力者像とは全く違うようですよ。

 
 

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「主命とあらばどんなことでも」な家臣だった

 

 
実際の柳沢吉保は、ものすごーく真面目で誠実な人で、やりたい放題のワガママ主君・綱吉の尻ぬぐいに奔走していたと伝わります。
 
 
将軍の権力をかさに着て悪事を働くでもなく、私欲を満たすわけでもない、ただただ誠実に言い出したら聞かない綱吉に逆らわず、従順だったので寵愛されたのでした。
 
 
結構な苦労人のようです。

 

 

綱吉の夜の相手でもあった

 

 
綱吉はすごい女好きで男好きな変態将軍でした。
 
 
プライベートタイムは、周りに多くの男女の愛人をはべらせていたそうです。
 
 
美女は大奥から調達するとして、美童の小姓たちは、調達・管理を柳沢吉保がやっていました
 
 
というのも、もともと少年時代、彼は綱吉のお気に入りの小姓だったので、主君の好みがよくわかっていたのでしょう。
 
 
そういう、趣味的なところもバッチリ押さえていたところも、寵愛が長く続いた一因だと思います。
 
 
あとは、染子という綱吉の側室が、後に柳沢吉保へ下げ渡されたとか、いやいや実は反対で、元は柳沢吉保の側室だった染子を綱吉が欲しがって献上したとかいう逸話も残っています。
 
 
染子が産んだ子が柳沢吉保の家督を譲った吉里なのですが、彼は実は綱吉の子ではないかともささやかれていました。
 
 
その辺りは中傷込みの後世の創作もありそうなので真実はわかりません。
 
 
柳沢吉保のように身分の低い出自の者が大出世すると、周りのやっかみや嫉妬から根も葉もない低俗な噂が飛び交います。
 
 
だから、どこまでが真実なのかは、よくわからないのです。

 
 

領民にとても慕われていた

 

 
幕府側用人としての将軍のそばに仕えながら、彼は藩主としても様々な仕事をこなしました。
 
 
川越藩主だった頃は、武蔵野の三富新田(さんとめしんでん)開発を推進し、吉保の命を受けた筆頭家老・曽根権太夫ら家臣によって実行されました。これは画期的なもので高く評価されています。
 
 
甲府藩主になってからも、本人は多忙で甲府に赴くことはできませんでしたが、家老に命じて甲府城・城下町の整備、検地、用水路野整備を行っています。
 
 
誠実な人柄は藩政にも表れたのか、彼は領民にたいへん評判のよい藩主だったようです。
 
 
彼の治めていたどの領国でも批判めいた事は一切なく、甲府から大和郡山に移封になったときも甲府の領民たちに惜しまれたそうです。
 
 
中央政界での悪評とのこの違いをみても、やはり周りのやっかみから生まれた悪い噂が多かったのかなと思います。

 
 

雅な教養人・文化人だった

 

【現在の六義園】

 
柳沢吉保は、風雅を解する人物として知られています。
 
 
彼は和歌や詩歌が大好きで、才能がありました。こういう文化芸術嗜好なところも綱吉と気が合います。
 
 
そして、下屋敷だった東京本駒込の六義園(りくぎえん)に、その雅な心が込められています。
 
 
六義園は、柳沢吉保の下屋敷の美しい庭園でした。数ある大名庭園の中でもっとも美しいといわれる築山泉水庭園だったのです、
 
 
これは吉保が「六義(むくさ)」と呼ばれる和歌的趣味を基調として作ったのですが、繊細でありながら技巧に走りすぎない大らかさな雰囲気がすばらしく、江戸の大遊園として今も人々の心をなごませる場所になっています。
 
 
隠居後、彼はこの場所でようやく穏やかな生活ができたようです。

 
 

柳沢吉保の簡単年表

 

 
・1658年(1歳)
江戸で誕生。
 
・1675年(18歳)
家督相続
→保明(やすあき)と名乗る。
 
・1680年(23歳)
幕臣・小納戸役に就任
(綱吉が5代将軍に)
 
・1688年(31歳)
綱吉の側用人に就任。
禄高1万2000石の大名に。
 
・1690年(33歳)
老中格に。
 
・1701年(44歳)
綱吉の「諱」の一字を拝命し吉保と改名。
 
・1704年(47歳)
甲府藩15万石の大名に。
 
・1706年(49歳)
大老格に。
 
・1709年(52歳)
家綱死没。
→幕府の役職を辞し隠居。
 
1714年(57歳)
六義園にて病没。

 
 
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