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昭和の頃、「一休さん」というテレビアニメがやっていました。
 
 
「好き好き好き好き好きっ好き~♪」という軽快なリズムと歌詞のOPや、子供の一休さんが、とんちで大人たちを右往左往させる楽しさを覚えている人もいると思います。
 
 
昭和世代なので私も知っていますが、あれは一休和尚のことだったのですね。
 
 
そして、あのいつも一休さんにとんちで負けて、悔しがっていたコミカルな将軍さまは、室町幕府の足利義満だったという・・・。(笑)
 
 
なかなか面白い設定でした。
 
 
今回は、その一休和尚について、お話しします。

 

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一休さんは天皇の息子だった!

 
 
 
一休さんは、実は、とんでもなく高貴な血筋の人なのです。
 
 
父親は、南朝から三種の神器を受け取って南北朝統一の象徴になった北朝の後小松天皇で、母親は、藤原家の日野中納言の娘・伊予でした。
 
 
当時は、まだまだ戦後の混乱期で、伊予が子供を身ごもると、皇位継承をねたんだ人たちから在らぬ噂を立てられ、都を追われてしまいます。
 
 
このままでは子供の命が危ないと考えた伊予は、子供が政争に巻き込まれることのないように出家させたのです。
 
 
それが、1399年、一休さんが5歳のときでした。
当時は、周建という名で、臨済宗安国寺で過ごしました。
 
 
数々のとんち話を残したのは、この安国寺にいるときです。

 
 

一休さんのとんち話

 

   ↑ ↑ ↑
一休さんのとんち話「屏風の虎退治」です。
 
 
安国寺で修行をしていた周建(一休)は、たいへん利発なこどもでした。特に、漢詩の才能は素晴らしく、優れた漢詩を残しています。
 
 
日本昔話でも、よく知られる「このはし渡るべからず」「屏風の虎退治」などのとんち話は、このころの伝説です。
 
 
ちなみに、アニメに出てくる武将の「しんえもんさん」は、実在の人物です。蜷川新右衛門という、一休さんの弟子でした。

 
 

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わび茶の創始者・村田珠光の師匠だった

 
 
 
わび茶の創始者で、茶室を考案した茶道の祖・村田珠光(じゅこう)は、一休の禅弟子であり、堺の豪商でした。(異説あり)
 
 
もともと、珠光は、眠気防止のために一休さんからお茶をすすめられたのだそうです。
 
 
彼の生み出した「わび茶」は、当時の豪華で派手な「大名茶」と、全く違う作法でした。
 
 
まず、茶室は、小さな四畳半に作られ、茶器などは、日本製の物を使いました。
そして、そこに居る間、人々は、身分に関係なく、ただ亭主のもてなしの心を受ける「客」として存在するというものでした。
 
 
その心が、「仏」と、珠光は考えたのです。
これは、まさに一休の教え、「仏は心の中にある」に通じるものでした。
 
 
そして、その茶道のもてなしの心は、武野紹鴎(じょうおう)を経て、千利休へと受け継がれてゆくのです。

 

 

一休さんのその後

 
 
周建(一休)は、1410年、16歳のとき、11年間修行した安国寺を出て、西金寺の謙翁(けんおう)の弟子になります。
 
 
謙翁は自分の名前・宗為の一字を譲って、周建に新たな「宗純」という法名を与えました。
 
 
一休さんは、この謙翁和尚をすごく慕っていて、一休が20歳のときに和尚が他界したとき、悲嘆のあまり、なんと瀬田川で入水自殺未遂を起こしています。
 
 
1415年には、京都の大徳寺の高僧、華叟(かそう)の弟子になりました。
 
 
1418年に、ゴゼ(盲目の歌方)の平家物語を聞いて、無常観を感じた彼は
 
 
「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と詠みました。
 
 
人生は煩悩あふれるこの世から来世までの、ほんの一休みの出来事にすぎない。雨が降ろうが、風が吹こうが、たいしたことはないのだという意味です。
 
 
これを聞いた華叟は、その歌の中から「一休」という字をとり、彼に「号」として授けます。
 
 
それ以降、24歳のときから彼は「一休」と呼ばれるようになりました。
 
 
一休さんは、一見、高僧とはとても思えない頭髪も無精ひげもぼうぼうの姿で、いつも、ぼろのような袈裟を着ていました。
 
 
そして、権威を徹底的に否定し、贅沢三昧な僧侶を糾弾しました。
また、僧侶なのに、飲酒、肉食を楽しみ、花街にも足を運ぶ僧侶らしからぬ生活をしていました。
 
 
そして、師の華叟が他界してから、庶民の中に入り、長く野僧とした生活を送ります。
 
 
1467年、一休が73歳のとき、京都で応仁の乱が勃発します。
 
一休は、戦火をのがれ大阪の摂津を訪れたとき、住吉薬師堂で、盲目の美人旅芸人・森侍者(しんじしゃ)に出会います。一休は、まだ若い彼女に一目ぼれし、その翌年から一休が他界するまで、約10年間、共に暮らしました。
 
 
1474年(80歳)に、戦乱で炎上した大徳寺を復興するため、天皇の勅命で、一休は、大徳寺の第47代住職にされてしまいます。
 
 
再建費用をどうしようかと考えた一休は、堺へ旅立ちます。実は、自由な気風の港町・堺では、一休の人気は絶大でした。ですから、そこで寄付をこうと、商人だけでなく、武士や茶人、庶民などたくさんの人々が寄進を申し出、莫大な資金が集まったのでした。
 
 
こうして、大徳寺法堂は、5年で落成したのです。
 
 
一休さんは、87歳まで長生きし、マラリアで亡くなりました。
彼の最期の言葉は、「死にとうない」だったそうです。(笑)
 
 
とても高僧とは思えない、でも、実に一休さんらしい最期の言葉でした。

 

一休さんの変な遺言

 
 
 
一休さんは、生前、自分の死後にもしも、皆の手におえない事態が起こったら、この手紙を読みなさいといって、弟子たちに一通の書を遺しました。
 
 
そして、一休が亡くなった後、数年が経ち、まさにそのような深刻な事態が起こったのです。弟子たちは、今こそ師匠の手紙を開くときだと思い、皆で開封する事になりました。
 
 
開封した手紙に書かれていた言葉は・・・
 
 
「大丈夫、大丈夫。何とかなる。」
 
 
だったそうです。
 
 
アニメ一休さんのCM前のセリフを思い出しましたよ。
「大丈夫大丈夫、一休み一休・・・」

 
 

一休さんのまとめ

 
 
一休さんが実在の僧侶だというのは知っていましたが、天皇のご落胤だったというのにびっくりでした。
 
 
坊主頭でなかったというのも、おもしろいです。
 
 
かなりの偏屈だったというのも、禅僧ならではのような気がします。
 
 
● 一休さんは、後小松天皇の皇子だった
 
● 政争に巻き込まれないために、幼いときに出家した
 
● 「わび茶」の創始者、村田珠光の師匠だった
 
● 70代で出会った若い盲目の旅芸人・森侍者と同棲生活をした
 
● 80歳で、大徳寺の住職になる

 
 
 

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【応仁の乱」その後も含めて簡単にまとめた7つのポイント

 
 
 

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