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こんにちは。
 
最近、なぜかよく取り上げられるようになった「応仁の乱」
 
実はこの地味な戦いは、日本史上まれに見る、ものすごく大事な戦いなのです。
 
でも、11年も続くわ、敵と味方が入れ替わるわ、戦争の当初の目的が変わってしまうわ、ストーリー的に全然盛り上がらない戦争なのでした。
(不謹慎ですみません)
 
なにより、かっこいいカリスマヒーローがいない!
主要プレーヤーだけでも数十人はいるのに、パッとしない人ばかりです。
 
これでは、魅力が薄くなるのは当然です。
 
しかもこの後に、綺羅星のごとくヒーローたちが登場する戦国時代が控えているものだから、もう仕方がないですね。
 
でも、先程もお伝えしたように、「応仁の乱」は、日本の大転換期となるたいへん重要なものです。
 
もう、日本人そのものが「応仁の乱前」か「応仁の乱後」かで、くくられるほどのものですよ。
 
その事は、また別記事で伝えするとして、今回は、そんなわかりにくい「応仁の乱」の概要を、簡単に説明します。

 
 

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「応仁の乱」ここだけ押さえれば大丈夫!


 
戦争を歴史の中でとらえる場合、まず、押さえておきたいのが、いつ、どこで、誰と誰が、なぜ(原因)、何のために(目的)行ったかです。

そして、勝者と敗者がどうなったのか、その後の社会にどんな影響をあたえたのかということも大切です。

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まず、戦乱当初の状況について、お伝えします。

「応仁の乱」の大事なポイント!

 

● 起こった年:1467年
 
● 場所:都(京都)
 
● 当事者:東軍と西軍
 
● 動員数:約27万人(東軍16万・西軍11万)

「応仁の乱」は、1467年に京都を中心に、東軍と西軍に分かれて戦った内乱です。11年も続いた大きな戦いですが、「乱」なのです。
 
「乱」と呼ばれるものには2つあります。
 
(1)権力への反乱を指す場合
(2)いくつもの戦いが続く戦乱を指す場合

 
応仁の乱は、京の都を舞台に、断続的な戦いが繰り広げられた戦いで、天皇家の後継争いも、原因の一つになっています。
 
戦いの当初、東軍代表は細川勝元、西軍代表は山名宗全でした。
 
年代の覚え方は、「ひとよむなしい応仁の乱」ですね。
もう、ほんと、むなしい戦いです。
 
何がむなしいって11年かけて史上最大の動員数で戦ったにもかかわらず、グズグズ状態のまま和睦、勝者も敗者もいなかったからです。
 
関ケ原の戦いが両軍合わせて16.5万人ですからね。半日と11年という終焉までの時間に大きな違いがあるので、もちろん数字だけでは図れませんが…。
 
関ケ原は、田舎の原っぱですが、応仁の乱は、舞台が「都」のど真ん中ですよ!
都が壊滅状態になってしまったというのも、納得です。
 
そんな応仁の乱のきっかけは、何だったのでしょう。

 

 

応仁の乱の発端

 

 
「応仁の乱」のきっかけは、有力守護大名の畠山氏・斯波(しば)氏の家督争いです。当時の守護大名たちは、たびたび家督争いをしていました。
 
この二家の家督争いに、実力者の細川勝元山名宗全が、それぞれ後ろ盾となり、抗争に発展します。
 
それに、室町幕府第8代将軍・足利義政の跡継ぎ問題が追い打ちをかけて、両者が激しく争うことになったのです。
 
この乱のきっかけは、次期天皇の座をめぐる足利義政と日野富子の夫婦ゲンカと思われがちですが、最大の原因は、畠山氏の家督争いなのでした。
 
なんだか個人的には、日野富子がすごい悪者にされてしまっている感じがします。確かに、お金大好きだったとは思いますが、彼女の財力が幕府の立て直しに役立ったのは確かです。
 
幕政の中心人物だった細川・山名両氏が争う事になったので、他の守護大名たちも、どちらかについて戦わざる得なくなりました、そして、この内乱は、都にとどまらず、全国の守護大名を巻き込んだ戦いに、発展していったのです。
 
11年続いた「応仁の乱」ですが、発端となった戦いも、乱の中でもっとも激しかった戦いも、最初の1年に集約されています。
 
その最初の1年に起こった大きな3つの戦いは、また別記事で紹介します。

 
 

応仁の乱の結末

 

 
簡単にいうと、西軍、東軍の戦いは、「引き分け」に終わります。
 
1473年に、西軍の山名宗全と東軍の細川勝元が相次いで病死します。そうすると、その息子たちの代になり、和睦が締結されたのです。
 
しかし、京の都は、長い間戦場となり、焼け野原となりました。上京の主だった神社仏閣の多くが、このときに燃え落ちています。
 
金閣寺・清水寺・聖護院・八坂神社・南禅寺・伏見稲荷大社などの観光名所が、ぜーんぶ焼失してしまいました。
 
祇園祭も、20年間中止となります。
 
そして、都の文化が地方に流出し、全国各地に「小京都」と呼ばれる町が生まれます。
 
応仁の乱が収束しても、地方に飛び火した戦火は、まだまだ治まらず、疲弊した各地で、国人一揆や一向一揆が起こるようになります。京都では「山城国一揆」が起こり、未だに権力争いを繰り返していた畠山氏を、山城国(京都)から追い出すことに、成功したのでした。
 
この「応仁の乱」によって、足利幕府の力は急速に衰えていきます。
 
 
そして、下剋上の時代、「戦国時代」へ突入していったのでした。

 
 

↓【応仁の乱まとめ記事・完全版】↓

【応仁の乱」その後も含めて簡単にまとめた7つのポイント

 
 
 

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