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こんにちは!
 
久しぶりにマリーアントワネットです♪
 
 
マリーアントワネットは、享楽的な性格で脇が甘かったこともあり、反対派貴族にいろいろ浮いたうわさを立てられていました。
 
 
その中で、いちばん信ぴょう性が高いのが、スウェーデン貴族フェルゼン伯爵との恋です。
 
 
フェルゼンのマリーアントワネットへの献身ぶりは『ベルばら』でも細かく描かれていますが、本当にその通りの人だったら「白馬に乗った王子様」というより「中世の献身的なナイト(騎士)」そのものです。
 
 
外国人なのにね。
 
 
ということで、今回は、マリーアントワネットとフェルゼンについて。
 
 
どこまで史実か不明ですが、シュテファン・ツヴァイクの『マリーアントワネット』にそってお伝えします。

 
 

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◆はじまりは「仮面舞踏会」のラブロマンス?

 

 
ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン、彼はスウェーデンの名門貴族の生まれで、父親はスウェーデン王室顧問、本人も国王グスタフ3世の寵臣でした。
 
 
遊び人ではなく、しっかり仕事もしていた名家の人だったのですよ。
 
 
ヨーロッパを3年間遊学し、貴族に必須の知識を習得したうえで、1773年12月、18歳でパリの社交界にデビューしました。
 
 
フェルゼンは長身で容姿端麗、雄弁家だったため、またたく間にパリの上流階級の貴婦人たちを恋のとりこにしてしまいました。
 
 
1774年、彼はパリの仮面舞踏会でマリー・アントワネットと出会います。
 
 
フェルゼンがマリーアントワネットに近づいたのは、運命の出会いではなく、スウェーデンの国益のためグスタフ3世の思惑が働いていたからといわれますよ。
 
 
マリーアントワネットにとっても、フェルゼンは始めは寵臣の1人にすぎなかったのですが、そのうち、やたらと私に優しいわとか同い年で話が合うわ(フェルゼンは雄弁家)などと思い、だんだん心を開くようになっていったのでした。

 
 

◆フランス王家への献身はスウェーデンの国益を兼ねていた

 

【フェルゼン伯爵】

 
1774年に国王ルイ15世が亡くなると、フェルゼンは王妃となるマリーアントワネットに自分との悪いうわさ(恋仲だといううわさ)が立たないようにと、いったんスウェーデンに帰ります。こういう気配りができるところが素敵ですね。
 
 
その後、1778年にパリに戻りましたが再び去り、アメリカ独立戦争に参加しました。
 
 
それから1785年に再びパリに戻るまで、あまりフランス王家との接点はありません。
 
 
彼がしっかりスウェーデン貴族として、国益のために働いていた人だったとわかります。

 
 

◆スウェーデンのスパイとして王室へ

 

 
やがてフランス革命が起ると、スウェーデン国王グスタフ3世は、革命阻止のためにスパイとしてフェルゼンをヴェルサイユに送り込みました。
 
 
そこから、フェルゼンのマリーアントワネットへの献身的な行動が始まります。彼は、王権擁護派のミラボーが病死して議会とのパイプを失っていた国王ルイ16世とも親しくなっていきました。
 
 
その後、マリーアントワネットとフェルゼンの主導で、国王一家は王妃の母国オーストリアに亡命しようと計画を立てました。
 
 
それが「ヴァレンヌ逃亡事件」とよばれるものです。
 
 
この逃亡事件は語ると長くなるので別の機会にゆずりますが、それぞれの不運と愚行が重なって失敗に終わってしまったのでした。
 
 
失敗したとはいえ、この逃亡計画を立てたとき、フェルゼンは莫大な資金を用立てるのに奔走し、綿密な計画を立てて精一杯尽力しました。実際、彼自身の身に危害が及ぶ可能性もじゅうぶありました。これは外国人という彼の立場では、考えられないような献身だったのです。
 
 
間違いなく、彼は自分の意思でマリーアントワネットを助けたいと願って行動を起こしていたのでした。
 
 
逃亡事件失敗の後も、フェルゼンは国王一家が幽閉されているテュイルリー宮殿に変装して忍び込み、国王と王妃に新たな亡命計画を進言しました。でも、パリに留まることを決意した国王はこれを拒否します。
 
 
その後、国王一家がタンプル塔に移送されてからも、フェルゼンは彼らを救うためあらゆる手を尽くしましたが、全て失敗に終わってしまいました。
 
 
革命が激しくなっていくと、フェルゼンはブリュッセルに亡命し、グスタフ3世やオーストリア駐仏大使と一緒に王妃救出のために奔走しました。
 
 
1792年にグスタフ3世が暗殺されると、スウェーデンは革命から手を引き、フェルゼンは政治的に失脚していまいます。
 
 
そしてその翌年、王妃マリー・アントワネットが革命政府によって処刑されてしまったのです。
 
 
それからのフェルゼンは、偏屈な暗い人間になり、革命を起こした「民衆」を憎むようになっていったそうです。
 
 
彼はマリーアントワネットが処刑される寸前まで、彼女を救おうとあらゆる手を使って尽力したのでした。

 

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◆フェルゼンとマリーアントワネットの関係は?

 

 
フェルゼンとマリーアントワネットが実際に不倫関係にあったのか、それともフェルゼンは騎士道精神のもと、王妃と王家に忠誠を尽くしていたのか・・・・
 
 
それは歴史のミステリーとなっています。
 
 
次男のルイ・シャルル(後のルイ17世)がフェルゼンの子供ではないかという憶測まで飛び交っていますが・・・
 
 
それはゲスの勘繰りというもので、別にそういうのは大した問題ではないのです。
 
 
当時は、貴族が愛人を持つのは今ほど糾弾される事ではなく、出産経験もある王妃にとって、そういう生理的なことは些末な問題だったのではないでしょうか?
 
 
そんなことよりずっと大切なのは精神的な献身です。そして、フェルゼンが献身的にマリーアントワネットに尽くし、信奉していたのは間違いなかったでしょう。
 
 
それでじゅうぶんだったと思います。
 
 
全てを失うマリーアントワネットにとってもっとも必要だったのは、燃え上がるような恋ではなく、献身的に尽くしてくれるナイトの存在だったと思うのです。
 
 
マリーアントワネットは、享楽的な性格だったわりに、男性スキャンダルが異常なほど少ない女性です。うわさになったのは、若い頃のアルトワ伯(ルイ16世の弟)ぐらいで、それも、性格がよく似ていて仲がよかったという程度です。
 
 
王妃を中傷したい人たちは、男性スキャンダルが見つからないので、親友だったランバル公妃やポリニャック夫人とのレズビアン疑惑を書きたてたのでした。
 
 
色恋より女子会が好きなタイプの女性だったのではないでしょうか? きれいなお姉さまが大好きだったのは、間違いありませんから。
 
 
一方、フェルゼンはハイスペックなイケメンだったので、かなりモテていて、恋人や不倫関係にあった貴婦人が複数いました。
 
 
ヴァレンヌ逃亡時にも、資金が足りなかったので、別の愛人にお金を用立ててもらっています。
 
 
それでも、忘れられない人がいるからと、星の数ほどあった(?)結婚話をすべてけって、生涯独身をとおした人なのです。

 
 

◆フェルゼンの最期は「あの運命の日」だった

 

 
グスタフ3世の死後、しばらくして親政をはじめたグスタフ4世のもとで、フェルゼンはまた働き始めました。
 
 
でも、1809年にクーデターが起こり、グスタフ4世は廃位されてしまったのです。
 
 
新しく王位に就いたカール13世には嫡男がいなかったので、アウグステンブルク家から王太子を迎えたのですが、その王太子が1810年に事故死してしまいました。
 
 
その王太子の死が、実は事故死ではなく王位を狙った暗殺事件だといううわさが飛び交いました。そして、暗殺の首謀者として民衆に嫌われていたフェルゼンの名前が上がったのです。
 
 
でも、カール13世は冷静を装って、フェルセンに葬儀の執行を命じました。
 
 
王太子の遺骸がストックホルム市内に運ばれ、広場で葬儀が行なわれました。そのとき広場に馬車で現われたフェルゼンに、群衆が襲いかかったのでした。
 
 
そばにいた近衛連隊の指揮官と兵士たちはあえて暴動を制止しようとせず、フェルセンはそのまま群衆の手で惨殺されてしまったのです。
 
 
フェルゼンの遺体は、全裸にされて側溝に投げ捨てられるという無惨な最期をとげました。
 
 
その日は、6月20日。
 
 
あの「ヴァレンヌ逃亡事件」から19年後の同じ日だったのです。

 

【マリーアントワネット関連まとめ記事】
 
マリーアントワネット・ルイ16世・子供たち・ランバル公妃など
 

 

 

 
 

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