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新選組でもっとも強いとも言われた天才剣士・沖田総司。
 
類まれな剣の腕を持ちながら、労咳(ろうがい)という病気で志半ばで亡くなります。
 
労咳は、今でいう肺結核です。
 
この病は江戸末期から幕末に、大流行します。
沖田総司が、いつこの病にかかったのか、また、いつ頃まで新選組組長として活躍していたのか気になります。
 
池田屋事件のときの喀血による昏倒は、なかったという説もあります。
 
今回は、沖田総司の病がいつごろ発覚し、容体が悪くなってきたのか、お伝えします。

 

池田屋で「喀血」はしなかった?

 

 
新選組が京の都で鮮烈デビューを果たしたのは、1864年の「池田屋事件」です。
 
この事件は、幕末のドラマやアニメでは必ず取り上げられますね。
非常に重要な、幕末のターニングポイントとなった事件です。
 
池田屋に新選組が乗り込んだとき、近藤隊の精鋭10人しかいませんでした。
沖田総司はその内の1人です。

 


 
この池田屋で1人を斬った後、総司が血を吐いて(喀血)倒れるシーンが、歴史ドラマではお約束のように出てきます。
 
この話は、子母澤寛という人の書いた「新選組始末記」からきているのです。
 
でも、実際に池田屋事件のときに、喀血するほど結核が悪化しているなら、余命1年ほどと考えられるので、これは創作ではないかという意見もあります。
 
また、幕末期を生き抜いた隊士の永倉新八が書いた「新撰組顛末記」には、沖田が昏倒したことのみしか書かれていません。
 
池田屋事件が1864年で、総司が亡くなるのが1868年なので、4年後ですね。
 
ただ、喀血があってから余命が1年というのも、あやしい情報です。これは、当時、大抵の人が1年以内に亡くなったからというあいまいな理由なだけで、例えば、正岡子規などは、始めの喀血から、10年以上生きています。
 
そもそも、このとき、沖田総司本人は、自分が労咳だったと認識していたのでしょうか。
 
彼は、この翌月の「禁門の変」にも、隊を率いて出動しています。
その後も、切腹した山南敬助の介錯を務めたり、近藤勇から次期宗家にと期待されています。
 
そんなことからも、この喀血というのは創作(嘘)だったのではないかと推測されるのですね。
 
そして、池田屋事件は、京都の暑い暑い夏の時期、祇園祭の頃に起きました。
 
夜間とはいえ、討ち入りなので、隊士はしっかりした装備をしていたでしょう。
京都の夏の暑さは、半端ないですよ。
 
そういうことを考え合わせて、最近の研究では、熱中症による昏倒だったという説が有力になっています。

 

沖田の結核は「健康診断」で発覚した?

 
 
1865年に、幕府御典医の松本良順が、新選組隊士170人余りに健診を行ったという記録があります。
 
これは、近代日本の健康健診のはしりといえるものでした。
 
当時、新選組は、西本願寺に屯所を移していたのですが、170人中70人以上もの隊士が病気と診断されています。
 
当時の屯所は、不衛生極まりなく、良順先生が呆れ果てたといわれます。
このとき松本良順は、屯所の「衛生管理」と隊士の「栄養状態の向上」について、しっかり指導を行っています。
 
そして、副長・土方歳三の指示で、すぐに屯所の大掃除が行われ、幾つかの部屋を病室に変えたそうです。
 
病気の隊士の病名は、1位が風邪、2位が食あたり、そして3位が梅毒でしたが、肺結核と診断された隊士が1人いました。
 
それが沖田総司ではないかと思われます。
 
本人はともかく、周りの人たちは、このとき始めて総司が肺結核だと知ったのかもしれませんね。
 
当時は、結核と梅毒は、若い人の間に大流行していて、不治の病とされていました。
 
松本良順は、近藤勇の胃痛を診察したときに知り合い、その後、新選組を最後まで支え続けます。

 

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戦線離脱し江戸で静養

 

 
1867年、御陵衛士の残党による近藤勇狙撃事件の犯人追跡に、沖田総司は出動していません。
 
この事件は、当然、一番組組長の沖田は出動するべきものでした。
しかし、このとき、二番組組長の永倉新八が総司の一番組も率いているのです。
 
このとき怪我をした近藤勇が大阪に向かう際、沖田総司も一緒に行って、共に療養しています。
 
大阪で療養した後、総司は、先に復帰した近藤勇を追って甲州に向かいますが、その途中、病状が悪化して江戸に戻されます。
 
その後 沖田総司は、松本良順の治療を受けながら、療養先の千駄ヶ谷・植木屋平五郎宅の離れで、5月30日に、1人で亡くなりました。享年25歳とも27歳ともいわれます。
 
そのとき、近藤勇は処刑された後(4月25日)でしたが、総司には近藤の死は、最期まで知らされなかったそうです。
 
切ないですね。

 

まとめ

 
★ 沖田総司が池田屋で喀血したというのは、間違いかもしれない
  最近は、熱中症で昏倒しただけという説が有力
 
★ 1865年、西本願寺の新選組屯所で行われた医師松本良順による全ての隊士の健康チェックは、健康診断のはしりだった

 
肺結核は、現代では特効薬が発見され完治する病ですが、当時は不治の病で、江戸末期から幕末期は国民病ともいわれるほど、多くの若い人が罹って亡くなりました。
 
長州藩の高杉晋作、土方歳三の両親や姉、他に、石川啄木や樋口一葉、正岡子規など文人たちも、この病で早死にしています。

 

 

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