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こんにちは。
前回、幕末の志士たちに大きな影響を与えた佐久間象山(さくましょうざん)について、お伝えしました。
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佐久間象山・洋学に優れた幕末の天才学者は吉田松陰の師でかなり凄い人!
彼は吉田松陰の師でもあったのですが、松陰以上に過激で、自分のことを「日本で一番優秀な人」と本気で思っていた人です。
傍若無人で、空気をあえて読まない人だったんですねー。
とにかく、思ったことをなんでもずけずけ言う、お上にも平気で物申す自信過剰な人だったので、実力は伴っていましたが、そのせいで敵を作りまくっていました。
そんな人なので、名言もたくさん残っています。
今回は、佐久間象山の数々の名言を、お伝えします。
佐久間象山の名言は、今でも新しい?
【出典元】wikipedia
こちらが、佐久間象山の写真です。
なんか、シュッとしてハーフみたいなかっこよさですね。
純粋の日本人のようですよ~。
実際にやってみなければ役に立たない。それがサイエンスだ
知識をため込むだけではなく、それをアウトプットする事、行動が大切と言っています。
福沢諭吉が『学問のすすめ』に書いている「実学」こそが学問だという意見に、通じますね。
失敗するから成功がある。
彼は、新しい事に取り組む好奇心が大切で、初めてすることには失敗が伴うものと考えていました。「失敗は成功の元」という言葉、多くの人は知っているけれど、失敗を恐れてなかなか実際には行動できません.
彼は、松前藩の要望で大砲を作ったとき、試射時に大失敗しているのですが、そのときもケロッとして「失敗があるからこそ成功があるのだ」と言い放ったそうですよ。
政治とは人で決まるものなのです。
その才を有するものが一人おりますれば、一国の政治は一気に好転いたしましょう。
西洋学に精通し、ヨーロッパの市民革命の進み方などもよく知っていた象山らしい意見です。これは、よく知られている名言ですよ。
一朝一夕で成るものではないことを肝に銘じるべし
象山は、朱子学と西洋兵学の第一人者です。儒教もサイエンスも、積み重ねが大切、どんな分野の物も、すぐには習得できないというのは、私の微々たる経験から考えても納得なのでした。
これも今までの修行の成果でありましょう
彼は、儒教を治めた朱子学者でもありました。雑念を払わなければ、一つの高尚なことに専念することはできません。
こういう言葉を残しているということは、逆説的に考えると、若い頃は人の言う事を気にしたことがあったのでしょう。
佐久間象山は、新選組と意外とつながりがあった?
黒船が日本に来た時、佐久間象山は、新選組の近藤勇に会っています。
近藤たちがまだ京へ上る前のお話しです。
2004年の大河ドラマ「新選組!」の第一回で使われたセリフが深いです。
「新選組!」は、土方歳三が山本耕史、沖田総司が藤原竜也、斎藤一がオダギリジョーで、私的に素敵キャスティングだったのでした~。もう10年以上も前のドラマなので、俳優さんたち、お若いですよ。
そして、その第一回で、近藤勇に石坂浩二演じる佐久間象山が、こういうのです。
そして、次の10年は家族のことを考える。
20歳になってからの10年は生まれた故郷のことを考える。
30歳になったら日本のことを考えて、
40歳になったら世界のことを考えるようになる。
俯瞰した世界の見方ですね。
人は、年を重ねるほど、視野が広がって利己から他者貢献へ、視点が変わっていくということでしょう。
でも、ただ年を取るだけではなく「問題意識を持って学び続けながら」というのが、大前提なのです。
近藤勇も土方歳三も、世界のことを考えられる歳まで、生きることはできませんでした。
そう思うと、切ない言葉です。
息子が新選組に入隊していた!
佐久間象山は、新選組と縁があって、彼が暗殺された後、息子・恪二郎が新選組に入隊しています。(お順の息子ではなく妾のお蝶の息子)
会津藩士の山本覚馬の勧めで、父の仇・尊王攘夷派の志士を討とうと志したのだそうです。
でも、恪二郎は、傲慢なだけのバカ息子で、問題ばかり起こした挙句、土方や沖田に呼び出されたのを暗殺されると勘違いして脱走しています。
それでも、佐久間象山の息子ということで、新撰組の「鉄の掟」から免れて明治維新まで生き残りました。
最後は、食中毒であっけなく亡くなったそうですよ。
享年31歳でした。
おわりに
ここまで、お読みくださり、ありがとうございます。
最後に、バカ息子の話を書いたので、佐久間象山の名言が消し飛んでしまいそうなのですが、自分の「日本一優秀な遺伝子」を残すことにこだわっていた象山が、ちょっと哀れで滑稽です。
傍若無人な性格だけ、似てしまったというオチみたい。
佐久間象山は、西洋の考え方がまだまだ広まっていない日本で、いち早くそれを知り、知識欲と改革の気骨ある若者に、その知識と思想を、どんどん伝えました。
彼は若い頃に修めた朱子学をその思想に取り入れていますが、当時の日本人から見ると、「西洋かぶれ」に見えたんですね。
1864年(元治元年)に暗殺されたのも、尊王攘夷派の志士によってでした。
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