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幕末の京の都で新撰組の名を大きく広めた「池田屋事件」。
 
当時の新撰組の仕事は、「京の治安の維持」で、実際には、反幕府の過激派尊王攘夷派を取り締まることでした。
 
今回は、幕末期の1つの流れを作るきっかけになった、「池田屋事件」を紹介します。
 
最後に、池田屋跡地の居酒屋「はなの舞」に行った様子も、おまけで載せています。(*‘∀‘)
上の画像は、その「池田屋・はなの舞」の2階入口です。
例の大階段を上ったところです。

 

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池田屋事件のきっかけ

 
1864年、幕末の京都で、市中見回りをしていた新撰組監察の山崎丞島田魁らが、炭薪商を経営する枡屋喜右衛門の動きが怪しいと突き止め、会津藩に報告したところから、この事件が幕開けます。
 
枡谷(ますや)の地下からは、大量の武器と火薬、長州藩との手紙が見つかり、枡屋喜右衛門は、実は、肥後藩の古高俊太郎だったと発覚するのです。
 
古高を捕らえた新撰組は、拷問により自白させることに成功しました。
 
その内容が、こちらです。
 
● 祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放つ。
● 火事の混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉する。
● 一橋慶喜・松平容保らを暗殺する。
● 孝明天皇を長州へ連れ帰る

 
そして、他に、長州藩・土佐藩・肥後藩などの尊王派が、古高俊太郎奪回のための襲撃計画を実行するかどうかを話し合う会合が、池田屋四国屋で行われるという情報も、手に入れました。
 
池田屋か四国屋か・・・!

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池田屋事件

 
1864年7月8日、新撰組は、二手に分かれて夜の見回りに出ました。
 
近藤隊は、近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助ら精鋭10名で鴨川の西回りを受け持ちました。一方、土方隊は、土方歳三、斎藤一、井上源三郎ら24名で東回りを進みます。
 
そして、三条小橋近くの池田屋に、近藤隊が到着します。
 
近藤隊が到着したとき、池田屋には不逞浪士が20名程、集まっていました!
おおっ! 池田屋のほうだったのですね。近藤隊は、精鋭揃いですが少人数です。
 
池田屋内部に踏み込んだのは、近藤・沖田・永倉・藤堂の精鋭中の精鋭4名でした。
残りの6名は、周りを固めます。
 
この10名で、土方隊が応援に駆け付けるまでの約2時間を戦ったのです。
沖田総司は、喀血し(昏倒しただけという説もあり)、藤堂平助は額を割られ、戦線離脱したため、最後まで中で戦い抜いたのは、近藤勇永倉新八でした。
 
● 強かった近藤勇
 
後世、新撰組で強かったといわれるのは、永倉新八・沖田総司・斎藤一です。
 
確かに、剣術のセンスや技術は優れていたのでしょう。しかし、池田屋事件では、近藤勇の実践の強さが際立ったと思います。練習試合と実践とでは、気合いとか度胸とか、いろいろな要素が変わってきます。
 
近藤勇は局長なので、次第に第一線に立つことが少なくなりますが、かなりの使い手で、こういう度胸のあるところが、隊長として慕われていたのかなとも思えます。
 
永倉新八は、文句なく強いですね!
余談ですが、彼は、最後まで生き残り、後に「新撰組顛末記」という記録を発刊しています。

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池田屋事件の歴史的意義

 
「池田屋事件」で、新撰組の名は、京の都に轟きました。
 
なんといっても、京都御所焼き討ち計画を未然に防いだのですから、その功績は大きいです。
 
尊攘派は、この事件で、吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵ら多くの逸材が戦死し、大きな痛手を受けることになりました。
 
この事件がきっかけになって、長州藩は内部の強硬派に引っ張られて挙兵し、「禁門の変」(8月20日)を引き起こすのです。

 

現在・池田屋は居酒屋に!

 

 
田屋は、現在、居酒屋「はなの舞」になっています。
 
京阪三条駅から徒歩5分もかからないぐらい、阪急・地下鉄河原町駅からも15分ほどかかりますが歩けます。私は、河原町から歩いて行きました。(数年前のことです。)
 
この辺りは、京都の中心部なので、お店が多く、歩くのも楽しいですよ。
 
居酒屋で夜の営業がメインなので、ランチは予約のみです!
新撰組というより薄桜鬼コラボなので、こちらのファンも多いようです。

 

 
この画像は、数年前のなので古いですよ。
ランチはちょっと量は少な目ですが、リーズナブルでした。
 
味は、期待しないほうがいいです。
この辺りは、もっと他に美味しいお店がわんさかありますから。

 

 
隊士カクテル。
 
ちょっと恥ずかしいけど、おもしろいです、カクテルの名前が!!(笑)
 
階段のところに、近藤さん、土方さん、沖田さんの刀剣レプリカなどが飾ってありますよ。

 

 
 

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