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こんにちは。
 
 
今回は、私がかなり注目している幕末のかっこよくて凄い人・山岡鉄舟について、お伝えします。
 
 
勝海舟と西郷隆盛が行った江戸城無血開城の会談の前、勝より先に西郷のもとを訪れ、幕府側の意向を伝えて大まかな取り決めををしたのが、山岡鉄舟なのです。
 
 
でも、なぜか手柄はぜんぶほらふき(?)勝海舟のものになってしまいました。
 
 
なんでかなー?
もっと注目されていい人だと思いますよ。

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彼は政治家ですが、「剣」「禅」「書」の達人で、しかも顔も中身もイケメンな人なのです。
 
 
まずは、山岡鉄舟がどんな人だったか、エピソードをあげてお伝えします。

 
 

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山岡鉄舟は「剣」「禅」「書」の達人だった

 
出典元:https://ja.wikipedia.org/wiki/山岡鉄舟
 
山岡鉄舟は、江戸を戦火から救った「幕末の三舟」の1人といわれますよ。他は、勝海舟と高橋泥舟です。
 
 
彼は、江戸の旗本の家に生まれましたが、父の転勤で飛騨高山で幼少期を暮らします。16歳のときに父が亡くなり、また江戸に戻りました。
 
 
幼いころから剣を学び、武術に天賦の才能を発揮します。「北辰一刀流」などを学びながらその道を極め、明治維新後は、「一刀正伝無刀流」の開祖となりました。剣の道は「禅」にも通じますね。
 
 
また、彼は「書」の達人でもありました。頼まれたら断ることなく書いてあげる、心の広い人だったようです。そのせいか、彼の遺した書は100万枚にものぼるといわれ、今でも「開運お宝鑑定団」などで山岡鉄舟の書の鑑定依頼などがります。
 
 
「書」で有名なのは、あんぱんで知られる「木村屋」に看板を贈ったことでしょう。木村屋の初代店主と剣をとおして知り合った山岡鉄舟が、店を開くときに贈ったといわれます。でも、関東大震災で焼けてしまって、現存していないのだそうです。
 
 
関西では、奈良の旅館「むさし野」に山岡鉄舟が書いた掛け軸があります。かなりの達筆で、力強いダイナミックな字ですよ。何を書いてあるのか、さっぱりわかりませんが・・・。
 
 
この旅館に、もうすぐ泊まりに行く予定なのです。すごく楽しみです。また報告しますね。

 

 

15歳で、自分を戒める「20の掟」を作る

 

 
山岡鉄舟は、15歳のときに、「修身二十則」という掟を作りました
 
 
これのすごいのは、組織をまとめるためのものや弟子に向けたものではなく、自分を戒めるための掟だというところです。
 
 
しかも、15歳で作り、生涯守った(守ろうとしていた)のだそうです。
この記事の一番下にその20個の掟を載せておきました。

 
 

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西郷隆盛に一目置かれる豪傑さ

 

 
1868年、32歳のときに、彼は精鋭隊の歩兵頭格になりました。この年、「江戸無血開城」に向けての勝海舟と西郷隆盛の会談の前に、鉄舟は西郷と面会します。
 
 
当時の江戸は至る所に薩摩軍がいたので、幕府側の彼が西郷のもとに行くのはかなり危険な事でした。鉄舟は死を覚悟して共一人のみを連れて乗り込んだのです。
 
 
そんな鉄舟に西郷隆盛は大きく心を動かされました。そして、将軍慶喜の身の安全を保証し、江戸無血開城への道が開かれたのでした。
 
 
会談をした西郷隆盛は、山岡鉄舟のことを、後にこう称賛しました。
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「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」
 
 
明治新政府の体制が整うと、西郷は山岡鉄舟を、明治天皇の侍従に推薦しました。もと朝敵の幕府の家臣だった山岡鉄舟が、明治天皇のおそばに仕えることになったのです。明治天皇との関係も、良好だったそうですよ。

 
 

侠客「清水の次郎長」と親しかった

 

 
山岡鉄舟は、なんと「清水の次郎長」こと山本長次郎と、長い付き合いをしていたといわれます。
 
 
「清水の次郎長」って時代劇でおなじみなので、江戸時代の人と思われがちですが、幕末から明治時代を生きた人なんですね。ちびまる子ちゃん」でも、よくネタになってますねー。(作者のさくらももこが清水市出身なので)
 
 
1868年、徳川幕府の軍艦「咸臨丸」が、清水港内で新政府の官軍に攻撃を受けて沈没しました。そのとき、次郎長は傷ついた幕府方の軍人を官軍の目の届かぬようにこっそり逃がしてやり、湾内に放置されていた死体を回収して、手厚く供養し葬ったのです。
 
 
この行為が駿府藩に知らされ、詰問されましたが、次郎長は「人は死ねばみな仏。仏に官軍も徳川もない。仏を埋葬することが悪いと言うのなら、次郎長はどんな罰でもよろこんでお受けする。」と答えました。
 
 
後に、このいきさつを聞いた山岡鉄舟は、たいへん感心して、それ以降、生涯親交が続いたのです。
 
 
鉄舟は次郎長より17歳も年下でしたが、鉄舟のほうが先に亡くなりました。そのとき、次郎長は、「清水一家総出」でお葬式に参列したそうですよ。

 
 

臨終は座禅のままで

 

 
山岡鉄舟の臨終は、勝海舟と中原鄧州が、それぞれ書き残しています。
 
 
それによると、その臨終はまるで儀式のようなものだったそうです。
 
 
まず、死ぬ前に入浴して、白装束をまとい、袈裟を掛けて仏弟子たることをを証しました。それから座禅を組んで、左右にいる人々をかえりみてほほえみ、そのまま亡くなったのだそうです。
 
 
勝海舟によると、山岡鉄舟は自分が死ぬ日を、予知していたのだそうです。勝海舟はほらふき(話を大きくする癖がある)といううわさがあるので、話半分と思ったほうがよいかもしれませんが・・・。
 
 
でも、この時代の剣(禅)の道を極めた人は、このような坐脱の臨終を迎える人もいたのでしょう。
 
 
確か、新選組の斎藤一も坐脱と伝わります。彼は常に正座をしていた人で、胡坐(あぐら)すらかかなかったそうですよ。同じく、剣の達人です。

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参考:「修身二十則」

1.嘘を言うべからず
2.君の御恩忘れるべからず
3.父母の御恩忘れるべからず
4.師の御恩忘れるべからず
5.人の御恩忘れるべからず
6.神仏ならびに長者を粗末にすべからず
7.幼者を侮るべからず
8.己に心よからず事 他人に求めるべからず
9.腹をたつるは道にあらず
10.何事も不幸を喜ぶべからず
11.力の及ぶ限りは善き方に尽くすべし
12.他を顧して自分の善ばかりするべからず
13.食する度に農業の艱難をおもうべし 草木土石にても粗末にすべからず
14.殊更に着物を飾りあるいはうわべをつくろうものは心濁りあるものと心得べし
15.礼儀をみだるべからず
16.何時何人に接するも客人に接するよう心得べし
17.己の知らざることは何人にてもならうべし
18.名利のため学問技芸すべからず
19.人にはすべて能不能あり、いちがいに人を捨て、あるいは笑うべからず
20.己の善行を誇り人に知らしむべからず すべて我心に努むるべし

 
 
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