この記事を読むのに必要な時間は約 18 分です。


 
今回は、新選組二番組組長・数々の豪快なエピソードで知られる永倉新八について、お伝えします。
 
彼は、途中で近藤勇と袂を分かちますが、明治維新を生き延びて、新選組の名誉回復に努め、新選組についての書物も残しています。
 
また、近藤勇の遺骨を集めるのに紛争し、隊士たちのお墓を立て、供養もしています。近藤勇とは、途中で志は違えましたが、やはり慕っていたのでしょうね。
 
当時、新選組は、新政府軍のプロパガンダで、だたの人斬り集団のよう思われていました。永倉新八は、それを憂いて、生き残った自分が何かできないかと考え、彼らの記録を本に残すことで、名誉回復に努めようと思い立ったのです。
 
それが、「新選組顛末記」です。
 
もちろん、永倉新八の主観や記憶違いもあると思いますが、当事者が書いたものという点で、当時を知る貴重な史料です。
 

 

スポンサーリンク

永倉新八をさらっと説明

 
 
永倉新八(1839~)は、松前藩の長倉勘次の次男として、江戸で生まれました。
 
8歳ですでに竹刀を握り、神道無念流剣術道場「撃剣館」の岡田利章の門人になります。
 
最初の免許を得たのは、なんと15歳のときでした!
 
その後、19歳で脱藩し、江戸の他の道場で学んだり、江戸を出て道場破りをしたりして、剣の腕を試したようです。この頃から、剣の道一筋ですね。
 
やがて、江戸にもどり、実戦剣術として知られる天然理心流・近藤勇の道場「試衛館」を訪れました。

 

 

剣技は超一流だった!

 

 
永倉新八は、後に弟子に
 
「沖田の剣はの剣、斎藤の剣は無敵の剣」
 
というかっこいい言葉を残しています。
 
でも、実は、当の本人も凄い剣の使い手でした。
この人が、新選組最強という説もあります。
 
新選組の阿部十郎は、
 
「一に永倉、二に沖田、三に斎藤」
 
と、剣術の腕は、沖田総司や斎藤一より永倉新八が上だったという言葉を残しています。
 
剣術の流派は、「神道無念流」で免許皆伝。
 
この神道無念流は、力強い打突や、上段からの一本を尊ぶ「力の剣法」といわれる流派でした。
 
得意技は「龍飛剣」といいます。
かっこいい技名ですね。
 
これは、下段の構えから敵の剣を擦りあげて、返して切り落とす技といわれます。彼らしい豪快な技だったとわかりますね。

 

新撰組二番隊組長として活躍

 

 
永倉は、新選組のほとんどの戦いに組長として最前線で戦っています。
 
池田屋事件の際には、近藤隊として、沖田総司・藤堂平助らと共に池田屋に突入しました。
沖田総司が病で昏倒し、藤堂平助が負傷して離脱するなか、永倉新八は左手親指に深い傷を負いながらも、近藤勇と共に土方隊が到着するまで奮戦します。
 
土間のたたきに当たって刀が折れてしまい、防具もボロボロで、壮絶な戦いぶりだったそうです。
 
こんな風に活躍していた永倉新八ですが、これ以前にあった芹沢鴨の暗殺のときだけは、刺客に選ばれず、計画さえ知らされていませんでした。やはり、同門の先輩剣士だったので、懇意にしていたのでしょうか。
 
芹沢鴨にも、良いところはあったという発言もしているので、近藤勇のやり方に、この頃から共感していなかったと思われます。
 
池田屋事件で新選組の名が高まると、近藤勇らの振る舞いが傲慢になります。
 
そのとき、永倉新八は、原田左之助、斎藤一、島田魁らと共に、会津藩主・松平容保へ「非行五か条」を訴え出ています。もともと仲間のような存在だった近藤勇が、上役のような顔をするのに我慢がならなかったのでしょう。このときは、容保の取り成しで和解しています。
 
間違ってると思ったら、しっかり抗議する真っすぐな性格なのでしょうね。
 
1868年、鳥羽・伏見の戦いでは、土方歳三が新選組局長代行となり、永倉新八が副長代行を勤めました。
 
その後、江戸に戻ると、近藤勇らと甲陽鎮撫隊に参加して、新政府軍と甲州勝沼で戦いますが敗れます。
 
江戸に戻ると、原田左之助と共に、新選組(甲陽鎮撫隊)と袂を分かちました。

 

その後の永倉新八

 

永倉新八は、京で島原亀屋の芸妓・小常との間に、娘・磯子をもうけています。
しかし、小常が病死したため、磯子は小常の姉に預けられたそうす。
 
その後、靖兵隊(靖共隊)を結成して、北関東で新政府軍に対抗しましたが、戦局は不利でした。そして、会津藩の降伏を知り、12月に松前藩に自首しました。
 
しかし、永倉新八の大叔母・長倉勘子が、松前藩主の愛妾で、かなりの寵愛を受けていたため、特に処罰されることなく、松前藩士として取り立てられました。ラッキーですね。
 
1873年には、北海道小樽へ移住し、1882年から4年間は、樺戸の刑務所の剣術師範になって、看守に剣術を指導していました。
 
やはり、この人も、剣術を教えていたんですね。
 
退職後は上京し、東京牛込で、剣術道場を開いています。

その後の豪快エピソード

 

 

 
★ 映画館でヤクザを退散させる!
 
永倉新八は、映画が好きで、孫を連れてよく映画館に通っていたそうです。
 
近藤勇や土方歳三は、亡くなってしまったが、これ(映画)を見たらどう言うだろう。自分は生き永らえたおかげでこのような文明の不思議を見ることができたと、感想を述べたそうです。
 
あるとき彼は、映画館の出口で地元のヤクザにからまれたことがありましたが、凄まじい眼力と一喝で退散させたそうです。さすがの気迫ですね。
 
★ 55歳で日清戦争の抜刀隊に志願!
 
1914年、日清戦争が勃発すると、55歳の永倉新八は抜刀隊に志願します。
まだまだやる気満々ですね。
 
元会津藩士の山川浩も志願したそうですが、2人とも「お気持ちだけ」と断られたそうですよ。明治時代は、まだまだ平均寿命が50歳ぐらいです。いくらお元気でも、ご高齢ですね。
 
★ 上野の西郷隆盛像を見て一言!
 
「禁門の変」の頃に、永倉新八は、西郷隆盛と面識がありました。
 
明治時代に、上野に建立された西郷隆盛像を見て、かれは、「本人とは異なる」と語っていたそうです。
 
西郷隆盛も、人物像が特定されていない、謎の多い人物ですね。

 

新撰組の名誉回復に努める

 

 
新政府の体制が、薩長の主導の下で整えられたため、当時、新撰組は、残虐な人斬り集団という印象を作られてしまっていました。
 
永倉新八は、そんな印象を払しょくしようと、新撰組の名誉回復に努めるべく、当時のことを語り始めます。
 
彼の本は、当時、まさにその組織の中心にいた人物のものということで、たいへん参考になります。
ただ、敵の数などちょっと盛っているところもあるようです。↓↓↓





 
永倉新八は、1899年に、再び小樽に転居します。
妻子が小樽市内で薬局を開いていたためといわれます。
 
後に、東北帝国大学農科大学(北海道大学)の剣道部が、是非とも永倉新八にご指導をと、依頼しにきたことがあるそうです。
 
京に残していた娘の磯子は、女役者・尾上小亀となっていて、そののちに再会できたそうです。
 
1915年(大正5年)1月5日、彼は、虫歯を原因とする骨膜炎と敗血症を発症して、小樽で死去しました。享年77歳でした。
 

【関連記事】
   ↓




 
 

スポンサーリンク