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こんにちは。
 
 
天智天皇の娘で天武天皇の妻でもあった女性・鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は、後に持統天皇となります。
 
 
歴史的には、彼女は夫・天武天皇と共同統治のような形で政治に携わり、夫亡き後はその事業を引き継いで天皇になり、若くして死んだ息子の子(つまり孫)が即位できる年に成長したとき、バトンタッチしたという女傑です。
 
 
いい事ばっかりクローズアップされていますが、見方によっては、この人、なかなかエゲツナイ鬼子母神のようにも思えますよ。
 
 
今回は、その持統天皇が、なにがなんでも天皇の座を自分の直系に引き継いだ点に注目してみます。
 
 
※ややこしくなるので、ここでは天皇になる前でも大海人皇子は「天武天皇」、鸕野讃良皇女は「持統天皇」と統一して表しますね。

 
 

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「壬申の乱」で「夫」と組みし「弟」を排除

 

 
 
672年、持統天皇の父・天智天皇が亡くなった後継争い「壬申の乱」が起こりました。
 
 
持統天皇の夫(叔父でもある)天武天皇と、弟の大友皇子との戦いです。
 
 
このとき持統天皇は、夫を全面バックアップして、一旦退いた吉野から兵をあげ弟を自害に追い込みました。
 
 
そうして、夫・天武天皇が即位したのです。
 
 
その後も、2人は戦友のような関係でともに日本という国を天皇中心の中央集権国家にするため働きました。
 
 
そして、天武天皇は、自分の代と同じようなことが起こらぬように、自分の子供たちを平等に扱うと決めました。母が違っても同じようにという考えです。
 
 
天武天皇の皇子は、年齢順に、
 
 
高市皇子・草壁皇子・大津皇子となります。
 
 
子供達を平等に・・・・・
 
 
そんなこと、認められるはずがない人がいました。
 
 
そう、持統天皇です。
 
 
彼女の息子は、真ん中の草薙皇子1人でした。
 
 
そうして、天武天皇は、とうとう686年9月に病で崩御します。

 
 

持統天皇・全力で大津皇子を排除する?

 

 
天武天皇の死後、天皇として最も有力だったのは、当時皇后だった持統天皇の息子・草薙皇子でした。
 
 
年長の高市皇子(たけちのみこ)は、母の出自が低い身分だったため候補から外されます。この時点でっすでに平等にはなっていないのですが、この時代は、慣例として母親の身分が大きなフィルターになっていたのです。
 
 
もう1人、草薙皇子の1つ年下の大津皇子がいます。
 
 
大津皇子の母親は、持統天皇の姉・太田皇女でした。太田皇女は妹の持統天皇よりも先に天武天皇の妻になり、大伯皇女大津皇子という2人の子供を産んでいます。そして、彼女は子供たちが幼いころに病気で亡くなっていたのです。
 
 
血統的には、持統天皇と互角なんですよ。
 
 
そして、持統天皇にとって非常に困ったことに、大津皇子は文武両道で頭の切れるカリスマ性のあるナイスガイだったのです。
 
 
天武天皇が存命中に、彼に政治を手伝わせていたというのですから、後継者にと考えていたとも思われます。
 
 
一方、草薙皇子は、両親と違って凡庸な性質、つまり、普通の人と思われていたようでした。
 
 
大津皇子は、リーダータイプにありがちな自信家で、父の仕事を手伝っていたという自負心もあり、また、周りの人々からの信望も厚かったのです。
 
 
そうして、天武天皇が病で倒れたとき、次の天皇に相応しいのは、草薙皇子ではなく大津皇子ではないかという空気になっていったのです。
 
 
持統天皇は、その事をいち早く察知していました。
 
 
なんといっても、彼女は夫とともに国を作ったキャリアと実績があり、その上、あの権謀術数のエキスパート天智天皇の血を引いているのです。
 
 
このままでは息子の帝位が危うくなると考えた彼女は、先手を打ちます。
 
 
686年9月に天武天皇が死去すると、その直後、大津皇子の謀反が発覚したのでした。そして、10月2日には死罪となります。
 
 
なんちゅう手際のよさ、国を思うと大津皇子のほうが適任なのかもしれませんが、持統天皇は、息子と自分の立場を第一に考えます。
 
 
なんだかすがすがしいほどの、自分の利益第一のドライさです。
 
 
実際に、大津皇子の謀反があったのかというのは、大津皇子の人柄や、天武天皇崩御から10日ほどで処刑されたという迅速すぎる対応から、持統天皇のでっちあげという説が有力です。
 
 
父の天智天皇が、有間皇子を陥れて死なせたのと、かなり似てますね。

 
 

大津皇子の「辞世の句」

 

 
無念の死を遂げた大津皇子の辞世の一句が現在まで残されています。
 
 
「ももづたふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」
 
 
(訳)今までずっと見てきた磐余の池に泣く鴨を、見ることができるのは今日で最後だ。明日には私は死んでしまうのだなあ。
 
 
無念さというより、虚しさ、哀しみの感じられる一句ですね。

 
 

息子が死に「持統天皇」として即位

 

 
大津皇子を死罪にしてまで我が子を天皇にと思った持統天皇でしたが、肝心の息子が689年に死亡してしまいました。
 
 
これはショックだったと思いますが、海千山千の持統天皇、すぐに次の一手を考えました。
 
 
まずは、「自分の直系」にこだわってる彼女なので、「草薙の息子(つまり自分の孫)」に帝位をつなげるためにどうすればよいか考えます。
 
 
孫はまだ幼なかったのです。そして、もっとも効率的なのは、孫が成長するまでの間、自分が天皇になることと思い当たります。
 
 
そうして、彼女は690年、持統天皇として自ら即位したのです。
 
 
それから、彼女は、孫が後に文武天皇として即位するまでの間、夫・天武天皇のやり残した政事を引き継ぎ、藤原京に都を移したのでした。

 
 

おわりに


女性が一国の権力を握る場合、皇后として、また権力者の愛人として夫をうまく使って自分の意をかなえる場合が多いと思います。
 
 
でも、この持統天皇は、違いますね。特に、夫が死んでからは、まさに自分が権力者として君臨した女帝です。
 
 
そして、やっていることを見ていくと、父親(天智天皇)にとてもよく似た娘だったのではと思わされます。
 
 
頭が切れて、謀略家でやり手なところが・・・。
 
 
政治家としても、きちんと天武天皇の引継ぎをしているので、かなり有能だったのでしょう。
 
 
敵に回るとものすごく怖い人ですが、頼もしい人でもあったかもですよ。

 
 

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