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先日、高台寺(の近く)に行ってきました。
(の近く)と書いたのは、お寺の中には入っていないからです。( ̄▽ ̄)
高台寺は、清水寺の下のほうにあるので、私はよく高台寺の駐車場に車を預けて、この辺りのお土産屋さんを散策します。
この高台寺、豊臣秀吉の正室、高台院(北政所)が晩年を過ごしたお寺として、知られています。
加藤清正や徳川家康などが、彼女を訪ねてここに来たんだなあと思うと、うれしくなるのでした。
京都は、そんな風に思える歴史的な場所が多いので、大好きなのです。
北政所は、豊臣秀吉亡き後、徳川家康と友好関係だったと、大河ドラマなどでは語られます。
実際のところ、彼女は、どんな人だったのでしょうか?
ねね・藤吉郎(秀吉)を婿養子に迎える
「ねねの道」
豊臣秀吉の正室は、「おね」または「ねね」と呼ばれることが多いです。
後に「北政所」(きたのまんどころ)と呼ばれ、秀吉亡き後は、出家し「高台院」と呼ばれるようになりました。
ドラマでは「おね」と呼ばれることが多いですが、高台寺の近くに「ねねの道」があるように、関西では昔から「ねね」と呼ぶほうが馴染みがあるので、ここではそう書かせてもらいます。
彼女は、尾張の木下(杉原)定利の娘として生まれ、その後、結婚するときに有利だからと、格上の親戚筋・浅野家に養女に出されます。
しかし、ねねは、若干14歳にして、親の希望とはうらはらの格下の家の藤吉郎、後の、豊臣秀吉と結婚する(婿養子に迎える)と決めたのです。
ねねの母・朝日は、この結婚には大反対で、最後まで認めなかったそうです。
ねねが秀吉の器量を見抜いていたのかどうかは定かではありませんが、この結婚で、木下家は出世頭を得て、身内の多くを秀吉の家臣にしています。
その中には、木下勝俊・木下利房、そして、「関ケ原の合戦」のキーマンとなる小早川秀秋などがいました。
ねねの実家・木下(杉原)家は、尾張に多くの人脈を持っていたので、秀吉をバックアップしたのではないかといわれます。
さっくばらんな肝っ玉母さん
ねねは、夫を支える妻の鏡との印象を持たれがちですが、実際は、すごく気さくな女性で、朝廷から官位を与えられる身分になっても、気取ることなく、秀吉と一緒に昔ながらの故郷の尾張弁で、ざっくばらんに話し合っていたそうですよ。
大坂城でも、2人で早口の尾張弁でまくし立てていたため、侍女が夫婦喧嘩と勘違いしたというエピソードが残っています。
ねねには子供がいなかったので、加藤清正や福島正則など子飼いの武将を、母のような立場で見守り、彼らにも非常に慕われていました。
尾張からの古参の武闘派の家臣と、仲良しだったのですね。
晩年の秀吉にとっては、ありのままの自分を出せて、それを受け入れてくれるかけがえのない人だったのはないでしょうか。
織田信長に夫の浮気を愚痴り慰めてもらった
ねねのざっくばらんなところが分かるエピソードの1つは、間違いなくコレでしょう。
一国一城の主となった秀吉は、調子に乗って、城下で女遊びを繰り返します。
ちなみに、秀吉の女癖の悪さは、有名です。
子供がいないからなんとかしたかったとか、思ってたのかもしれませんけど。
それに、腹を立てたねねが取った行動は、夫に怒りをぶつけたり、嫌味を言ったりするような、平凡なものではありません。
なんと、夫の会社の社長に浮気を告げ口し、愚痴ることでした!
こ、これは、スゴイです。
奥様方、できますでしょうか?
ねねの気さくさ大胆さもよく分かりますが、信長様ってそんなことを言っても大丈夫な人だったんだ~と、妙な所で感心してしまうエピソードなのでした。
よっぽど、もとからねねを気に入っていたのか、それとも、意外と信長様はフェミニストで女性には優しかったのか。
後者だとすると、信長様、かっこよすぎるんですけどっ!!!(≧∇≦)
(すみません。)
ねねさんは、相当賢い女性だと思うので、「よしよし」と慰めてあげたくなるような可愛い愚痴り方ができたのでしょう。
なぜなら、信長様は、この後、なんと! わざわざねね宛に手紙を送っているのですから。
その手紙は、現存しています。
(本人が書いたか代筆かは不明です。)
その一部をかいつまんで紹介しますと、
まずは、ねねが持参した献上品をほめあげた上で、
「お前の容姿は、以前会ったときに比べ、十のものが二十ほどにも美しくなったように見えた。
藤吉郎(秀吉)ごときが、お前のような女房に不足を言うなんて言語道断だ。
あの禿ネズミが、この先どこを訪ねようと、お前以上に美しい女を求められるわけがない。
だから、これからは正室らしく、どっしりと構えて、些細なことで嫉妬などするな。そして、正室なのだから、言いたいことは全部は口に出さない方がいい。」
なんでこの人、こんなに女心が分かるの(´・ω・)?
旦那に浮気された女性がもっとも言われてうれしいのは、おそらく容姿を褒められることでしょう。
しかも「禿ネズミ」旦那より、各段に威厳も権力もあり、美系筋といわれる信長様からの賛辞ですよ。
ねねさん、これは、一気に気分が回復したことでしょう。
そして、この手紙の最後には、例の「天下布武」(てんかふぐ)の押印が、バシリと押されていました!
これは、旦那に見せるに違いないです!
そして、それを見た「禿ネズミ」は・・・と考えると愉快ですね。(*^^*)
余談ですが、そもそも、信長様は、女性に優しいエピソードがたくさんある方です。大河ドラマなどでは、冷酷さばっかりクローズアップされますけどね。
ベタぼれの側室・吉乃はもちろんのこと、子供を産まなかった濃姫も、正室としてしっかり立てて、安土城に迎え入れています。濃姫には、信長の死後も息子・信雄(吉乃の子)から化粧料が送られていたそうです。また、他家に嫁がせた娘には、心配だったのか、よく手紙を送ったといわれます。(戦国武将は筆まめな方が多いですね。)
徳川家康と良好な関係だった
豊臣秀吉の正室だったねねと豊臣家を滅ぼした徳川家康は、単純に考えると、敵対関係に思えます。
豊臣秀吉は、政治的にすごく不安的な時期に、亡くなってしまいました。
当時は無謀な朝鮮出兵のさなかで、後継ぎの秀頼は年少で政治力はありません。
こんなとき起こるのは、決まって家臣間の内ゲバですね。
秀吉の家臣の間では、尾張時代からの古参の家臣・加藤清正や福島正則らと、近江時代に新たに家臣になった石田三成らとの確執が、以前からありました。
それを、うまく利用したのが徳川家康です。
徳川家康は、尾張派の加藤清正や福島正則らを取り込み、「関ヶ原の戦い」で石田三成を破ります。
そして、その過程で重要な役割を果たしたといわれるのがねねなのです。
一説によると、豊臣家を見限ったねねが、尾張派の武将を東軍につくように促したともいわれます。
「関ケ原の合戦」は、西軍の小早川秀秋が、東軍(家康側)に寝返ったことで、一気に勝敗が決まります。
この小早川秀秋は、ねねの甥です。
ただ、ねねの知らないところで、黒田長政が画策し、さも「ねねが東軍につくことを望んでいる」というニュアンスで、秀秋に伝えたのではないかという説もあります。
真相は、藪の中ですね。
もう1つ、興味深いのは、ねねが「関ケ原の合戦」の1年前に大阪城を出ていることです。そして、その翌年、家康が大阪城に入場しています。
偶然でしょうか?
そこから、いろいろな憶測が囁かれます。
以前は、ねね(高台院)と淀殿が不仲だったという説が有力でしたが、最近は、2人の関係はそんなに悪くなかったと考えられています。そもそも、嫁姑(両方・妻ですが)みたいな関係と、単純にとらえるのは間違いです。
おそらく、この2人は、相当賢い女性ですよ。
それに、豊臣家の中での「役割」が異なります。
ただ、この頃、豊臣家を牛耳っていたのは、石田三成ら近江派と淀殿が連れてきた浅井の旧家臣たちでした。
ねね(高台院)にすれば、もしかしたら、お隣・三河出身の家康のほうが、昔馴染みで気心の知れた仲だったのかもしれません。
いずれにせよ、正室のねね(高台院)がこの年に大阪城を去り、その後、家康が入城したということから、2人の間には何かの意思の疎通があったと考えられます。
おわりに
「関ケ原の合戦」後も、徳川家康は、最後までねねを厚く遇したといわれます。
また、二代将軍・秀忠は、12歳のとき、ねねの元に人質として送られ、ねねを母のように慕い、将軍になった後も、幾度か高台院を訪れたと記録に残っています。
彼女の大きな功績のの1つは、この「人質の管理・育成」だったと思います。
人質というのは、身代金目的で使われる現代の人質ではなく、友好関係を結ぶ証として送られた、後に大名になる子や大名の妻・母です。
親身になって世話をし、子供の場合は、教養や武術なども身につけさせた上で、豊臣家に親愛の情を持つよう育てることが、彼女の大きな役割でした。そして、その貢献度は、非常に高かったと思います。
ねねのお墓は、彼女が最後に過ごした京都東山の高台寺に建てられました。
夫亡き後の天下の行く末を、彼女はどのように見つめていたのでしょう。
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