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1203年、源頼朝の息子・源実朝(さねとも)が、鎌倉幕府第3代将軍に就任しました。
 
 
兄の頼家が死亡した後、まだ12歳での就任です。彼はどういうわけか都に憧れ和歌や蹴鞠など公家文化を好む文人将軍でした。
 
 
特に和歌は都の藤原定家に文のやり取りをしながら教えてもらっていて「小倉百人一首」にものせてもらっています。(93・鎌倉の右大臣)
 
 
「武」の総大将でありながら、なぜ彼は雅な趣味にのめりこんでいったのか、なかなか興味深い人物です。

 
 

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源実朝の生い立ち


 
 源実朝は源頼朝北条政子の次男として1192年に生まれました。2代将軍の源頼家は10歳年上の兄です。(同じ両親なのにかなりの年の差)
 
 
実朝は頼朝が征夷大将軍の宣下を受け、名実ともに鎌倉幕府初代将軍になってすぐに生まれた男児だったので、両親は縁起の良い子だと大喜びでした。
 
 
当時の位の高い人は子供を手元で育てなかったので、実朝は乳母に選ばれた母・北条政子の妹の阿波局(あわのつぼね)の元で育ちました。阿波局(あわのつぼね)の夫は頼朝の弟の阿野全成(あのぜんじょう)です。
 
 
つまり、実朝の人生は母の実家・北条氏の全面的なバックアップで始まったのです。
 
 
これは兄・頼家が比企能員(ひきよしかず)の家で生まれ、比企氏が乳母夫となり、のちに結婚する妻も比企能員の娘と比企家一色だったのと対照的です。
 
 
この後見人の体制が兄弟の将来に不安な影を落とすのが、目に見えるようですね。
 
 
1199年、実朝がまだ7歳のとき、父・頼朝が落馬が原因というあいまいな理由で突然亡くなってしまい、兄の頼家が家督を相続しました。

 
 

実朝が3代将軍に就任

 

 
1203年9月「比企能員(ひきよしかず)の変」が起こりました。
 
 
この変は実朝擁立をもくろむ北条家と頼家の後ろ盾の比企家の対立が原因で起こったものでした。その結果、比企能員(ひきよしかず)が北条氏に謀殺され、比企一族は一日で滅亡してしまいました。
 
 
そのとき頼家は病気が悪化して重体だったのですが、北条氏は朝廷に「死亡した」という嘘の報告をし、自分たちの手駒になる実朝を3代将軍にしてもらうよう願い出たのです。無茶苦茶ですね。
 
 
兄を死んだことにして家督相続させるって、すごい陰謀に巻き込まれています。
 
 
一時危篤状態だった頼家はその後快復し比企家滅亡を知って激怒したのですが、そのときにはすでに実朝が征夷大将軍に補任されていました。頼家は伊豆の寺に幽閉され、数か月後に刺客の手によって殺されました。
 
 
そうして3代将軍となった源実朝はまだ12歳、政治の実権は祖父の北条時政が握るようになりました。
 
 
12歳の将軍では仕方ないですね。
 
 
その時政は幕府の実権を握って有頂天かと思いきや、なんと1205年に孫の実朝を排除して娘婿の平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍にしようと企てたのです。
 
 
一体なぜこんな妙なことを思いついたのかといいますと、そういう場合、たいてい背後に女性の影があります(←偏見)。
 
 
このとき時政は牧の方(まきのかた)という若い後妻にたぶらかされて、まっとうな政治的判断ができなかったと思われるのです。
 
 
当然この決定は身内から大きな反感を買いました。そうして、時政は息子の義時と娘の政子に追放され、幕府の実権はこの2人の手にわたったのです。このとき実朝はまだ14歳、北条義時は2代目執権に就任しました。

 
 

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源実朝にとって和歌とは


 
源実朝が成人しても、政治の実権は執権・北条義時と母の政子が握り続けました。
 
 
御家人の権力争いレースはもはや北条氏の独走状態、でも、実朝がまったく政治に興味がなかったのかというとそうでもありませんでした。
 
 
義時の要望に対してはっきり拒否することもあれば、自分の意見を通すこともありました。
 
 
しかし、やはり政治の世界で長くもまれてきた叔父とは実績が違います。
 
 
どうしても主導権を握られたままの状態が続き、しだいに実朝は和歌の世界にのめりこむようになりました。
 
 
「新古今和歌集」の撰者に選ばれた名歌人の藤原定家(ふじわらのていか)に自分の和歌を採点してもらったり、定家から万葉集を送ってもらって大喜びしたりと、和歌に夢中になり、「金槐和歌集」という和歌集の編纂までしています。
 
 
実際に源実朝は、後世、正岡子規らに名歌人と尊敬されるほど優れた和歌を残した人でした。
 
 
しかし、実朝の和歌への傾倒は、無粋な武家の御家人たちからは「公家かぶれ」とみなされ、反感を買ってどんどん評判を落としていったのです。

 
 

実朝の渡宋計画


 
1216年6月、宋から来た陳和卿(ちんなけい)という僧が実朝に対面しました。
 
 
彼は実朝の顔を見ると感激し、涙ながらに「前世で、あなたは宋の医王山の長老で、私はその門弟でした」と語ったそうです。
 
 
陳和卿(ちんなけい)は、奈良東大寺の大仏の再建に尽力した宋からきた僧でした。(東大寺は平重衡の南都焼き討ちで焼失)
 
 
実は以前、実朝も夢に現れた高僧に同じことを言われたらしく、陳和卿(ちんなけい)の言葉をすっかり信じてしまい、11月には宋に渡るための船の建造を命じました。
 
 
いきなりそんなことを言い出された重臣の北条義時大江広元はびっくりです。もちろん彼らは反対したそうですが、実朝の宋への思いは消えずとうとう船を造らせました。
 
 
ところが翌年の4月、完成した船はなぜか進水に失敗してしまいます。そしてそのまま由比ガ浜の砂浜で実朝の夢とともに朽ち果てたのでした。
 
 
あっけない最後でしたが、なぜこの時期に実朝が船を造らせてまで宋に行きたいと願ったのか、気になりますね。
 
 
もしかしたら、彼は自分のその後をなんとなく予見していて、今いる世界から逃げ出したかったのかもしれません。

 
 

実朝暗殺の黒幕は誰?


 
成人した実朝は、1218年になるとなぜかどんどん「官位」を与えられレベルアップしていきました。
 
 
実朝自身も昇進を望んでいたそうですが、1月に「権大納言」、3月に「左近衛大将」、10月に「内大臣」、12月にはとうとう武士としてはじめての「右大臣」になりました。
 
 
彼は周囲の人に「源氏の正統は自分で終わるから、せめて高い官位について家名をあげておきたい」とも言っていたそうです。(『吾妻鑑』)
 
 
実朝は後鳥羽上皇とは良好な関係にあったとされ、さらにこの年の2月に母の北条政子が後鳥羽上皇の皇子を将軍の後継者として迎えるため上洛していたとも伝わります。
 
 
つまり、実朝は将軍職を後白河上皇の「親王」に譲って自分はその後見人になろうとしていたのではないかという説があるのです。
 
 
めまぐるしい昇級といい、後鳥羽上皇との仲といい、そうだったとしても不思議ではないですね。
 
 
しかし、彼のこの構想は翌年の死をもって潰えます。
 
 
1219年1月27日、鶴岡八幡宮で行われた「右大臣拝賀の式」に出席した実朝は、太刀持ち役を務めていた源仲章(みなもとのなかあきら)とともに、甥の公暁(くぎょう)によって刺殺されたのでした。公暁は2代将軍頼家の次男です。
 
 
その日は雪の降りしきる寒い日だったそうです。実朝は千人ほどの家臣を引き連れて、夕刻に鶴岡八幡宮を参拝しました。そして20時ごろ参拝を終えた実朝が家臣の元へ戻ろうとしたときに、3~4人の刺客に突然襲われたのです。
 
 
公暁は「親の仇!」と叫んで実朝の首を斬り落とし、そのままその首を持ち去りました。
 
 
公暁の逃走先は乳母夫の三浦義村の邸でしたが、義村は直ちに長尾定景に公暁追討を命じ、公暁はその日のうちに討ち取られました。
 
 
公暁が持ち去った実朝の首は、とうとう見つかりませんでした。
 
 
実朝殺害の実行犯は公暁でしたが、実は黒幕がいたのではないかと今も疑われています。
 
 
公暁はけしかけられて誰かの「刀」にされただけなのではないか・・・
 
 
まず、不可解なのは、実朝の当日の太刀持ち役です。その日は源仲章ではなく北条義時が太刀持ちを務める予定だったのです。でも、義時が突然体調不良を訴えて直前に源仲章に代わってもらったのでした。
 
 
実は公暁のターゲットは実朝と義時の2人で、義時がそれを事前に察知して代わってもらったのではないかという説があります。
 
 
北条義時を狙う人物というと考えられるのは有力な御家人、そして公暁の乳母夫は実朝暗殺後に彼が逃げ込んだ三浦義村・・・
 
 
三浦義村のその日の行動も不可解です。もしかしたら彼が公暁をけしかけたのだけれど、北条義時を討ちそこなったと知るや彼を見捨てて北条側に寝返り、即口封じに動いたではないか、そういう説もあります。
 
 
いずれにせよ実朝暗殺の真相は、謎に包まれています。
 
 
この源実朝の死により源頼朝から始まった河内源氏の政権は3代で滅びました。
 
 
それから先、鎌倉幕府は滅亡の時まで「執権」の北条氏が幕府の実権を握り、「将軍」は親王や藤原摂関家から選ばれた「お飾り」になります。

 

源実朝の簡単な年表


 
1192年(1歳)
源頼朝と北条政子の次男として誕生
 
1199年(8歳)
父頼朝が死去
兄頼家が家督相続
「13人の合議制」が敷かれる
 
1203年(22歳)
「比企能員の変」で比企一族が滅びる
 
1203年(12歳)
鎌倉幕府第3代将軍になる
 
1204年(13歳)
伊豆国修禅寺で兄・頼家が暗殺される
 
1205年(14歳)
「畠山重忠の乱」
「牧の方陰謀事件」で祖父・北条時政が追放
 
1206年(15歳)
母・政子の命により兄・頼家の次男・善哉(公暁)を養子にする
 
1213年(22歳)
「和田合戦」で和田義盛を滅ぼす
「金槐和歌集」を編纂
 
1217年(26歳)
渡宋計画を立て作らせた船を海に出すが沈んで断念
 
1218年(27歳)
武士ではじめての右大臣になる
 
1219年(28歳)
鶴岡八幡宮で甥での公暁により暗殺

 
 
【参考】

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