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鎌倉幕府は日本初の武士による政権です。それより前は、政治は京の朝廷(天皇家と貴族)が行ってきました。
この鎌倉幕府以降、700年も以上にわたって武士による政権が続きました。
今回は鎌倉時代がいつどの場所で始まったのか、そしていつなにが原因で滅亡したのかお伝えします。
簡単な「年表」は一番下にあります。
鎌倉幕府の成立は1185年?
鎌倉時代がはじまったのは、今では1185年とされています。以前は1192年と習っていたからです。
なぜ変わったのかというと、以下の2つの出来事のうち、どちらを鎌倉幕府成立にするのかという見解の違いです。
↓
1185年→壇ノ浦で平家滅亡、源頼朝が「守護」「地頭」設置を認められた年
1192年→源頼朝が「征夷大将軍」に任命された年
源頼朝が挙兵した1180年からという説もあるようですが、とりあえず一般的には今では1185年とされています。
鎌倉幕府の設置場所
源平の争乱の間、源氏の総大将・源頼朝は、1180年に鎌倉の大倉に御所を置き、そこで邸宅として暮らしていました。これを「大倉幕府」といいます。
それから45年経ち、源氏の将軍が途絶えて頼朝の妻の北条政子が亡くなったとき、執権となった北条氏が幕府を宇都宮辻子へ移動させました。これが宇都宮辻子幕府」といわれる御所です。さらに10年後には、若宮大路へと御所を移しました。「若宮大路幕府」です。
「大倉」「宇都宮辻子」「若宮大路」はすべて今の神奈川県鎌倉市、鶴岡八幡宮の近くにありました。
鎌倉幕府の将軍
鎌倉幕府の初代将軍は幕府を開いた源頼朝でしたが、1199年に落馬が原因で亡くなりました。跡を継いだ2代目は嫡男の源頼家でした。源頼家は北条氏に将軍職を奪われ暗殺されてしまいます。そのあと3代目に将軍に選ばれたのが頼朝の4男、まだ12歳の源実朝でした。
3代将軍の源実朝も26歳の時、頼家の息子の公暁に暗殺されてしまいます。
将軍職は源頼朝とその2人の息子だったわけですが、源氏の子孫はこの3代で途絶えてしまいました。
そして、4代目からは皇族や藤原摂関家から迎えられることになります。
なぜわざわざ遠い京から公家を招いたのかというと、朝廷に対抗して御家人たちに一目置かれるためには高貴な血を頭に据えることが重要だと考えられたからです。
しかし、幕府の実権はこれらの公家将軍でありませんでした。源頼朝の妻・北条政子の一族・北条氏が「執権」というナンバー2の役職に就いて実権を握っていたからです。
鎌倉時代の仕組み
鎌倉幕府の役職は簡単にいうとこんな感じです。
・将軍:鎌倉幕府のトップ 4代目以降は公家でお飾り
・執権:将軍の補佐役、ナンバー2だけど実際はトップ
・連署:執権の補佐、ナンバー3の役職
・評定衆:政策決定を担当、後に寄合衆に代わられる
・寄合衆:北条氏の家臣団、後に評定衆の役割を行う
・引付衆:裁判を担当
・政所(まんどころ):政治を行う所
・侍所(さむらいどころ):軍事・警察
・問注所(もんちゅうじょ):御家人の訴訟を扱う所
・守護(しゅご):地方の御家人の取り締まり、軍事・警察を担当
・地頭(じとう):地方の税金の取り立て、土地の管理、治安維持
・六波羅探題(ろくはらたんだい):京都にある貴族と西国の武士を監視する部署
・鎮西奉行(ちんせいぶぎょう):九州地方の御家人のトップ
・奥州総奉行(おうしゅうそうぶぎょう):東北地方の御家人のトップ
・蝦夷代官(えぞだいかん):北海道(蝦夷地方)の管理
3代目執権の北条泰時が「御成敗式目」を作り、武士のための法律が制定されました。
鎌倉幕府の仕組みで大切なのは、「御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)」の関係です。
「御恩」とは幕府が御家人や武士に土地などを与えることで、「奉公」はそれに報いて御家人が幕府のためにしっかり働くすことです。
幕府と御家人の間には相互の関係があったということですね。
幕府に対する御家人の忠誠心は、この仕組みの中で作られたものでした。そして、それがうまく機能しなくなったとき、鎌倉幕府は滅亡へと追い込まれていったのです。
鎌倉幕府滅亡の原因
鎌倉幕府は「御恩と奉公」という幕府と御家人の相互関係でなりたっていました。
幕府のために働いた(奉公)御家人に土地や金などの褒章を与える(御恩)という関係です。
しかし、幕府が御家人たちにじゅうぶんな「御恩」を与えられない事態が発生したのです。
それが1274年と1281年の「蒙古襲来」(元寇)でした。
元とその支配下にあった高句麗の軍が海を渡って攻めてきたのです。日本は大きな損害を出しながらもなんとかこれを撃退しました。
これで一安心というところですが、この戦いで命をかけて戦った御家人たちに対し、幕府は十分な「御恩」を与えることができなかったのです。
戦いに膨大な費用がかかり、元を追い返しただけで土地を得ることもなかったので、御家人たちに分配する恩賞がありませんでした。
御家人たちはどんどん貧しくなり、幕府に不満を募らせていきました。
そして、幕府の弱体化をみた後醍醐天皇は、政治の中心を天皇を中心とした朝廷に戻したいと考え、幕府を討とうと計画したのです。
この倒幕計画には多くの御家人が参加しましたが、計画はばれて後醍醐天皇は隠岐に配流されました。
しかし、これのよってさらに多くの御家人が幕府に反発し、楠木正成などが倒幕のため挙兵しました。
この武士の反乱を制圧するため幕府は有力な御家人の足利尊氏や新田義貞を向かわせましたが、この2人も後醍醐天皇側についてしまいました。
足利尊氏は京都の六波羅探題をおとし、新田義貞は鎌倉を攻めました。追い込まれた第14代執権・北条高時は、鎌倉の東勝寺で自害しました。
こうして148年続いた鎌倉幕府は滅亡したのです。
その理由は、幕府に対する御家人(武士)の不満と政権を取り戻そうとした天皇の執念によりました。
鎌倉時代の簡単な年表
1185年
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡
源頼朝が諸国に守護・地頭を設置する
1192年
源頼朝が征夷大将軍となる
1199年
源頼朝が落馬で死去
嫡男の源頼家が2代将軍に就任
1203年
源実朝が3代将軍に就任
北条時政が執権に就任
1205年
北条義時が執権に就任
1206年
チンギス・ハンがモンゴルを統一
1219年
源実朝が暗殺される
1221年
「承久の乱」が勃発
京都に六波羅探題を設置
後鳥羽上皇が隠岐に配流
1224年
親鸞が浄土真宗を開く
1232年
「御成敗式目」の制定
1253年
日蓮が日蓮宗を開く
1268年
北条時宗が執権に就任
1274年
蒙古襲来(元寇)「文永の役」
1281年
蒙古襲来「弘安の役」
1297年
永仁の「徳政令」発布
1324年
醍醐天皇の倒幕計画がばれる「正中の変」
1331年
後醍醐天皇が再び倒幕を計画「元弘の変」
楠木正成の挙兵
1332年
後醍醐天皇が隠岐に配流
1333年
後醍醐天皇が隠岐を脱出
足利尊氏が六波羅探題を攻略
新田義貞が鎌倉を攻略
↓
鎌倉幕府滅亡
【参考】
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