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鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻・北条政子は、夫の死後も尼将軍として幕府を支え続けた女傑です。 
 
 
今回は北条政子の波乱万丈の人生をエピソードを交えながらお伝えします。

 
 

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4歳で出会った頼朝に恋をする


 
北条政子は1157年、伊豆の北条時政の娘として誕生しました。
 
 
そして数年後に「平治の乱」で平家に敗れた源義朝の遺児・源頼朝が流罪となり伊豆に流されました。
 
 
頼朝の平家側の監視役が、政子の父・北条時政だったのです。
 
 
出会ったとき源頼朝は13歳、北条政子は4歳でした。
 
 
流罪で監視付きといってもそこは源氏の御曹子、頼朝はわりとゆるい暮らしができたようです。
 
 
そして、彼はモテてました。なぜだかとにかくモテています。
 
 
北条家の前の監視役・伊藤祐親(すけちか)宅では、祐親の上洛中に彼の娘・八重姫と恋仲になり、なんと息子(千鶴丸)までできてしまいました。
 
 
これを知った祐親(すけちか)は激怒、平家の怒りを恐れて千鶴丸を川に沈めて殺害、頼朝も殺そうとしました。間一髪、邸を逃げ出した頼朝は、北条時政の館に逃げ込んでかくまってもらったのです。
 
 
そう、頼朝は北条家に来る前にも同じことをやらかしていたのです。
 
 
当主の娘と恋仲になるってことは、よっぽど優し気な雰囲気だったのでしょうか。
 
 
とにもかくにも、4歳で頼朝に出会ってしまった政子は、成長するにつれ彼に恋心を抱くようになりました。
 
 
そして2人は相思相愛になったのですが、それを知った父・北条時政が大激怒、2人を無理やり引き離し、政子をすぐに許婚(いいなずけ)の元に送り出してしまいました。
 
 
でも、政子はそれで引き下がるような娘ではありません。
 
 
送られる途中こっそり脱走し、頼朝の元へたった1人で山道をかけ戻ったのです。
 
 
娘の熱すぎる恋心を知った父の北条時政は、とうとう頼朝との仲を認めたそうです。
 
 
しかし、実際はそんな甘い理由ではなかったでしょう。
 
 
この2人の結婚を認めるのは、平家の手前、頼朝の監視役としてあってはならないことでした。それを押してこの選択をしたということは、北条時政がこのとき一族の命運を頼朝(源氏)にかけたということです。
 
 
この「かけ」がどうなったのかは、源平合戦の結果を待つこととなります。

 
 

息子(頼家)を幽閉し父(時政)を追放


 
1199年、夫・頼朝が突然落馬が原因(?)で亡くなってしまいました。
 
 
その後、頼朝と政子の嫡男・頼家が家督を継いだのですが、まもなく将軍位をめぐって次男の実朝との争いが起こりました。
 
 
頼家の後ろ盾の比企氏(ひきし)の発言力が強くなり、実朝の後ろ盾の北条氏が危機感を持ったからです。
 
 
政子はもちろん実家の北条氏(実朝)サイドにいました。
 
 
そこで政子は弟の義時とともに策を練って比企氏を滅亡に追い込み、養父を殺され怒った頼家を死亡したことにして幽閉してしまいました。(その後、刺客により殺害)
 
 
そうして、北条政子の妹・阿波局(あわのつぼね)が乳母になっていた源実朝が3代目将軍に就任しました。
 
 
これで一件落着と思っていたら、今度は父の時政が若い後妻の牧の方(まきのかた)にたぶらかされて彼女の娘婿・平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍にしようと企てます。
 
 
それに怒った子供の政子と義時は、後妻ともども父・時政をすぐに出家させ自領の伊豆に追放しました。
 
 
こうして鎌倉幕府の実権は時政から2代執権・北条義時へと代わり、北条政子は義時を補佐したのでした。

 
 

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息子(実朝)が孫(公暁)に殺される


 
1206年、政子は嫡男・頼家の次男の善哉(ぜんざい)を引き取りました。そして、彼女は7歳の善哉を3代将軍源実朝の猶子(養子)にさせたのです。
 
 
その後、善哉は12歳のとき出家させられて「公暁(くぎょう)」という法名を受け上洛します。そして、1217年に鎌倉に戻り、政子の意向で鶴岡八幡宮の別当に就任しました。
 
 
この孫を思う政子の気持ちは、あとあと取返しのつかない事件を引き起こします。
 
 
善哉(公暁)にとって実朝は「親の仇」でした。父・頼家は実朝(と北条氏)に将軍位を奪われて幽閉され殺されたのですから、そう思うのも仕方がないでしょう。
 
 
そして、1219年の1月、実朝は鶴岡八幡宮へ参拝し、家臣団のもとへ戻ろうとしたそのとき、甥(養子)の公暁に刺殺されました。

 
 
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政子はなぜ公暁を頼朝に近づけてしまったのか。幽閉し死なせた頼家への贖罪だったのでしょうか。
 
 
彼女の甘い考えが孫が息子を殺す事件を可能にしてしまったのです。

 
 

「承久の乱」で御家人をまとめる


 
1221年、後鳥羽上皇執権北条義時を討伐する「宣旨」を出しました。
 
 
「宣旨」が出されたということは「朝敵」と認定されたこと、知らせを受けた鎌倉に激震が走りました。
 
 
朝廷と良好な関係で思い通りにできると思っていた将軍・実朝が暗殺され、幕府が混乱しているこのときに、後鳥羽上皇は幕府をつぶそうと考えたのです。
 
 
当時の武士にとって「朝廷」はまだまだ大きな権力を持っていたので、御家人たちは朝廷か幕府かどちらにつくか決めかねていました。
 
 
このままでは鎌倉幕府は崩壊してしまいます。そのとき、政子が立ち上がり御家人たちに伝えました。(代理の足立影盛に代弁させたとも)
 
 
「朝敵を征伐し幕府を創設した頼朝公の恩は、山よりも高く海よりも深い。上皇をそそのかす逆臣の讒言により、今、不当な宣旨が下された。我らは将軍が残したこの幕府を守り抜かねばならない。朝廷に味方したいと望む者はただちに申し出よ。」
 
 
幕府と御家人たちのこれまでの絆の強さを訴え、悪いのは上皇をそそのかす周りの家臣で敵は上皇ではないと言って、恐れる御家人の気持ちを静めたのです。
 
 
御家人たちは武士を貴族の呪縛から解放した頼朝への恩を思い出し、みな涙しました。そして、一致団結した御家人たちの力により、戦いは鎌倉幕府の勝利に終わりました。これが「承久の乱」です。
 
 
そして出家しながらまだ幕府を動かす発言力を持っていた政子は、尼将軍(あましょうぐん)と呼ばれるようになりました。

 
 

「執権」の後継問題が起こる


 
「承久の乱」の3年後、政子の弟で2代目執権の北条義時が病死しました。すると、今度は「執権」をめぐる後継問題が起こったのです。
 
 
またまた政子の身内の争いです。
 
 
もともと義時の息子の北条泰時(やすとき)が後継者候補だったのですが、これに義時の後妻の伊賀の方(いがのかた)が反対し、自分の子の北条政村の擁立を画策したのです。
 
 
北条政村は母の実家・伊賀一族の思惑で担ぎ出された感じです。伊賀氏の力が強くなることは北条氏の政子としては避けねばならないことでした。
 
 
そこで、政子は伊賀氏と協調しようとしていた三浦義村に接近し、三浦氏を味方に引き入れることに成功します。そうして三浦氏に見捨てられた伊賀氏は、謀反の意ありとされて伊豆へ流されました。
 
 
そして、政子ら北条氏が後ろ盾の北条泰時が3代目執権となり、それを見届けるかのように翌年1225年、北条政子は亡くなりました。
 
 
北条氏のために最後まで尽くした人生でした。

 
 

夫の浮気相手は家ごとぶっ壊す!?


 
ここからは、北条政子の人生で知られるエピソードを紹介します。
 
 
源頼朝と北条政子の嫡男は1182年に生まれた頼家でした。
 
 
でもその少し前、政子の妊娠中に頼朝はある女性に夢中になったのです。
 
 
その女性の名は「亀の前」(かめのまえ)。『吾妻鏡』によると「亀の前」は頼朝の伊豆配流の頃から仕えていた女性で、容貌美しく柔和な性格の人でした。
頼朝は彼女に癒しを求めたのでしょう。「亀の前」をかなり大切にしていて、政子にばれないように邸を構えさせていました。
 
 
しかし、とうとうそのことを政子に知られてしまいました。
 
 
当時のえらい人は一夫多妻制だったので、別に普通のことだったのですが、政子にはそれが許せません。
 
 
嫉妬に駆られた北条政子は、「亀の前」がかくまわれていた邸を襲撃させました。「亀の前」は、そこから命からがら逃げ出したのでした。
 
 
政子のこの行為に今度は頼朝が激怒しました。そうして、周囲を巻き込む大騒動に発展してしまったのです。
 
 
『吾妻鏡』の欠文のため、この騒動の結末は分からずじまいなのですが、頼朝は以前よりいっそう「亀の前」を寵愛したそうです。
 
 
激しすぎる女の嫉妬は、男性を萎えさせるということでしょうか。でも、政子の場合、単純に嫉妬に狂ったわけではなく、「亀の前」の背後にいる勢力をけん制するために襲撃したのかもしれません。

 
 

静御前への思いやり

 

 
1185年「壇ノ浦の戦い」で平家を滅亡させると、源頼朝と弟の源義経の不和が確定します。
 
 
そして、頼朝は朝廷に義経追討令を出してもらって弟を追い詰め、その翌年、義経の愛人の「静御前」(しずかごぜん)を捕らえました。
 
 
静御前は京で評判の美貌の白拍子(しらびょうし)だったので、頼朝と政子はその美しい舞をぜひとも見てみたいと披露させました。
 
 
静御前は恋人の敵の前で踊りを披露するなど屈辱でしたが、拒否するわけにもいかず、いやいやながら舞いました。
 
 
彼女はせめてもの抵抗の気持ちを込めて、「義経の身を案じている、彼に会いたい」という意味の歌詞の歌を歌って舞ったのです。
 
 
その歌を聞いた頼朝は激怒しましたが、このとき政子が静に同情し、頼朝をやんわりといさめたのです。
 
 
政子になだめられた源頼朝は冷静になり、静御前はとがめられずにすみました。そして静が京に戻るとき、政子はたくさんの宝物を持たせてやったそうです。
 
 
同じ女性として、静の心情を思いやった政子の「いい話」でした。

 
 

幼い悲恋に散った娘・大姫


 
北条政子の生涯は、肉親の争いが絶えませんでした。
 
 
嫡男の頼家は幽閉・殺害され、次男の実朝は孫の公暁に刺殺されるという子供や孫、親兄弟が相争うハードな人生を送っています。
 
 
彼女はそれに追い打ちをかけるような、悲しい娘の死も経験しているのです。
 
 
政子には頼朝との間に「大姫」(おおひめ)という娘がおりました。
 
 
1195年、頼朝と政子は大姫を後鳥羽上皇に入内させる政略婚を計画しました。
 
 
ところが、大姫の心には幼い頃に人質としてまた許婚(いいなずけ)として一緒に暮らした忘れられない少年がいたのです。
 
 
少年の名は源義高(よしたか)といいました。源平合戦当初の1183年、伊豆で挙兵した頼朝と北陸で挙兵した木曽義仲とが和睦の印として「婚姻」させようとした木曽義仲の息子でした。
 
 
当時、義高は10歳、大姫はまだ4~5歳でした。しかし、一緒に暮らすうちに、義高の優しさに惹かれた大姫は将来のお婿さんとして彼に恋をしたのです。
 
 
そんな2人の仲を引き裂いたのは、大姫の父・頼朝でした。
 
 
後白河法皇の木曽義仲追討を受け、義仲を討ったとき、禍根を残さないため息子の義高も殺害させたのです。
 
 
大姫が悲しむのを見ていられないと、政子は義高の逃亡を助けたと伝わりますが、結局、追手に見つかり義高は刺殺されました。
 
 
父に想い人を殺された大姫は嘆き悲しみ、精神的にも病んでしまいすっかり衰弱してしまいました。
 
 
娘を病むほどのショックに突き落としてしまった政子は、そのとき自分のことのように悲しんだそうです。
 
 
それでも、頼朝は強引に政略婚の準備を進めました。
 
 
しかし、大姫が入内することはありませんでした。その直前に19歳の若さでこの世を去ったのです。
 
 
このタイミングのよすぎる彼女の死は、いろいろな憶測を生みました。自殺か他殺か、疑われるのも仕方がないでしょう。

 
 
【参考】



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