この記事を読むのに必要な時間は約 10 分です。


 
こんにちは。
 
 
今回は、勝海舟、吉田松陰らの師であった佐久間象山(さくましょうざん)を、紹介します。
 
 
1853年、日本の浦賀にアメリカの大きな黒い戦闘艦がやって来ました。
ペリーが「黒船」に乗って来航したのです。
 
 
この大きな船の出現は、日本中が慌てふためく、びっくり仰天の大ニュースでした。
 
 
佐久間象山(さくましょうざん)は江戸で「五月塾」という私塾を開いていました。彼はペリーが来る何年も前から、外国の脅威を感じ、西洋と渡り合える兵器が必要と考えていました。そして、多くの若者に西洋の学問を教えていました。その私塾の門弟たちが、すごい顔ぶれなんですよ!
 
 
今回は、佐久間象山とその門弟について、お伝えします。

 
 

スポンサーリンク

超自信家だった?佐久間象山

 

 
佐久間象山は松代藩の下級武士の子として生まれました。
松代藩と言えば、あの真田信繁の兄・信之から続く信州の藩です。
 
 
象山は、3歳で文字を読み書きできた、たいへん優秀な子供でした。
そして、ものすごーくわんぱくで、ケンカっぱやい性格だったそうです。
 
 
15歳で元服したとき、松代藩主の真田幸貫に会って、藩の儒学者・鎌原桐山の私塾に入ることが許されました。
 
 
ここから、学問の道が始まったのです。
 
 
その後、学問を究めるために23歳のとき、藩の給費生として江戸に出て本格的に儒教を学びます。そして、藩に戻って働くうちに、蝦夷(北海道)の松前藩からの依頼で、大砲を作るという大きな仕事が回ってきたのです。
 
 
でも、この時の大砲の製造は、大失敗でした。
 
 
試射をしたとき、全ての砲身が爆発してしまったのです。
なので、スポンサーの松前藩から、製造費用が無駄になったと、とがめられてしまいました。まあ、当然ですね。
 
 
でも、象山は謝りません。
 
 
彼は、「失敗があるから成功があるのだ」と大威張りで言い放ったのでした。確かに、何かを発明するときは、試行錯誤が欠かせないし、始めは失敗して当然です。
 
 
でも、はっきり松前藩の役人に言う傍若無人なところが、象山の困ったところなのでした。
 
 
プライド高すぎで、いつも自信満々だったため、人と争ってばかりだったようです。

 
 

江戸で「黒船」を見た!

 

 
1852年、象山が41歳のとき、再び江戸で暮らすことを藩から許可されました。
 
 
象山は、江戸で「五月塾」という私塾を開き、儒学と西洋兵学を教え始めました。
 
 
この塾に入門した顔ぶれが、すごいのですよ。
 
 
勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰、小林虎三郎、橋本左内、河井継之助など幕末にいろんな立場で活躍する人たちが、顔を並べていました。
 
西郷隆盛や会津藩士の山本覚馬(新島八重の兄)も、この塾で顔を合わせています。
 
象山の存在や教え自体が、幕末の政情に、非常に大きな影響を与えたといわれるのも納得ですね。
 
象山43歳のとき、ペリーが黒船でやって来ます。ペリーは、一旦帰ったのですが、翌年、1854年に再び来航して、日本に開国を迫りました。
 
 
3月31日、日本は開国を受け入れ、下田と函館を開港すると決めました。
でも、このときは、日本は交易に関する取り決めには応じていません。
 
 
このペリーの来航時、佐久間象山のもとで学んでいた吉田松陰が、アメリカへ渡航させてほしいと頼みに来たのです。
 
 
でも、ペリーは、幕府との交渉に差しさわりがでると困るので、松陰の願いを受け入れませんでした。
 
 
吉田松陰は、どうしようもなくなり、下田奉行に自首して、投獄されました。当時、幕府の許可なく国外に渡航することは、犯罪行為だったのです。
 
 
このとき、佐久間象山も、松陰をそそのかしたという罪で、捕まってしまいます。
 
 
それから、彼は9年間、松代藩で「自宅蟄居」を申し付けられたのでした。

 
 

妻は「勝海舟」の妹だった!

 

 
象山には、愛妾が2人いましたが、正妻がいませんでした。
無事に成長した子供が、1人しかいなかったため、彼は自分の優れた遺伝子を、たくさん残したいと考えたようです。
 
 
どこまでも傲慢で自信家な人ですね。面白い人です。
 
 
彼の子供は、成人して新選組に入り、後に明治になって司法省で勤めたりしています。でも、父ほど有能ではなく、傲慢な性格だけが似たようで、問題を起こして免職になりました。
 
 
そんな象山と結婚したのは、勝海舟の妹「お順」でした。
象山41歳、お順17歳の歳の差カップルです。
 
 
勝海舟の父は反対したそうですが、お順が望んで結婚したそうですよ。
ちなみに、キューピット役は、坂本龍馬でした。
 
 
勝海舟は、本来は勝麟太郎という名で、「海舟」というのは、象山からもらった「号」なのです。
 
 
象山は「海舟書屋」と書かれた額を、部屋に飾っていました。お順と結婚した頃、それを勝麟太郎に託したのです。それから、彼は、勝海舟と名乗るようになったと伝わります。
 
 
勝海舟は、このように象山を尊敬していましたが、「ほら吹き」とも公言していたそうですよ。
師匠の欠点もしっかり見て、盲目的に信じていたわけではなかったと、わかります。

 
 

長い謹慎生活と京都での暗殺

 

 
長く自宅蟄居していた間、象山は、まったく大人しくしていなくて、いろんなところに自分の言いたいことを発信し続けました。
 
 
そして、1864年(元治元年)、佐久間象山は一橋慶喜に招かれて京都に上ります。
彼は、慶喜に「公武合体論と開国論こそが真の攘夷」だと、説きました。
 
 
この年の7月11日、真紅の西洋鞍を置いた白馬に乗るという目立つ恰好で、象山は京の都を進みました。
そして、三条木屋町で、前田伊右衛門、河上彦斎ら刺客に、暗殺されたのです。
象山、54歳。
 
 
謹慎を解かれ、これから活躍しようとした矢先のことでした。
 
 
どうして、西洋鞍を置いた白馬になんて乗って行ったのでしょうね。超目立つ「西洋かぶれ」な格好です。
 
 
幕末の京の都は、尊王攘夷派の不逞浪士が、たくさんいました。
もう少し、慎重にすべきだったと思いますが、分からなかったのでしょうか。

残念です
 
 

佐久間象山は、どんな功績を残したの?

 

 
佐久間象山は、明治維新の4年ほど前に、新しい時代を見ることなく亡くなりました。
 
 
彼は、どんな功績を残したのでしょう。
 
 
象山は、西様式軍学の専門家で、西洋医学にも精通していました。
英語とオランダ語を独学で習得し、洋書を読みこなしたといわれます。
 
 
そして、洋書の文献だけを頼りに、大砲の鋳造や、留影鏡と呼ばれるカメラ、地震予知機など、いろんなものを発明したのです。
 
 
学者というだけでなく、科学者であり発明家だったのでした。
 
 
そして、彼の思想や知識は、勝海舟、坂本龍馬など幕末に活躍する多くの人に影響を与えました。
 
 
次回は、
吉田松陰よりすごかった!? 佐久間象山の数々の名言をお伝えします。
 
 
お読みくださり、ありがとうございました♪

【関連記事】
幕末の洋学者・佐久間象山の名言が深い!新選組との意外なつながりも紹介

 
 

スポンサーリンク