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こんにちは。
 
 
今回は、幕末の思想家といえばこの人!
吉田松陰についてお伝えします。
 
 
彼の開いた私塾「松下村塾」の門下生は、早々たるメンバーなのですが、実際に彼が教えたのは、たった2年4カ月だったとのこと。
 
 
始めにお伝えしておきますが、彼は、けっして聖人君子ではありません。
どちらかというと、めちゃくちゃ過激で、正しいと思ったら国禁を犯すのも気にしないという危なっかしい人でした。
 
 
今回は、そんな吉田松陰の私塾のスタイルについてお伝えします。
まずは、松下村塾で教えた吉田松陰の短い一生についてさらっとおさらいしますね。
 
 
ちなみに、松下村塾は、現在の「山口県萩市(長州萩城下)の松本村」にあった私塾なんですよ。

 
 

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吉田松陰の29歳の一生を、さらっとおさらい

 

 
吉田松陰は、長州藩(山口県)の武士の家に生まれました。
本名は、吉田寅次郎(とらじろう)といいます。
 
 
彼は子供のころから、とても賢い少年でした。そして、5歳のときに、叔父の玉木文之進(たまきぶんのしん)が教えていた松下村塾で学び始めます。
 
 
「松下村塾って、叔父さんがやってた塾なのー!?」と思いませんでした?
 
 
そうなんですよ、松下村塾は、もともと叔父さんが教えていた塾で、後に彼が引き継いだのです。そして、この叔父さん、かなり厳しい人で、スパルタ教育だったそうです。
 
 
彼はその塾で学問に励み、9歳で長州藩の藩校・明倫館(めいりんかん)の教師見習いとなりました。おいおい、ほんとかよと突っ込みたくなる賢さです。

 
 

脱藩して東北・江戸などを遊学

 
松陰は、20歳のとき、兵法学を学ぼうと思い立ち、九州を訪れます。
 
そして、そこで知り合った肥後藩(熊本県)の宮部鼎蔵(みやべていぞう)と、一緒に東北に学びに行こうと約束して、脱藩したのです。
 
東北に行きたかった理由は、海防調査ためでしたが、なかなか藩が許可してくれなかったから脱藩ってー!
下手すると斬首ですよ。
 
余談ですが、宮部鼎蔵(みやべていぞう)は、後に「池田屋事件」で新選組に襲われ、自刃します。
 
松陰は、このとき諸国を遊学して、江戸で佐久間象山に会い西洋兵学を学びました。
 
1853年ペリーが「黒船」で浦賀に来航し、その翌年、下田に来たとき、彼は「外国に行くチャンス!」と思います。
 
そして、盗んだ小舟で「黒船」の一つに近づき、乗り込んで、ペリーに「一緒にアメリカに連れてって!」と頼んだのでした。
 
幕府の許可のない国外渡航は、国禁です!
 
日米和親条約を結ぼうとしていたペリーは、幕府と問題を起こしたくなかったので、松陰の願いを聞き入れませんでした。
 
当然です。
 
それで、しかたなく松陰は下田奉行のもとへ自首し、投獄されたのでした。松陰24歳のときです。
 
 
それから1年後、松陰は釈放されました。

 
 

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「松下村塾」で教え「安政の大獄」で果てる

 

 
1857年、松陰(27歳)は、地元の萩(山口県)で、叔父の松下村塾を引き継ぎました。松下村塾は、上級武士のように藩校の明倫館では学べない、近所の足軽など下級武士も受け入れたのでした。
 
 
ちなみに、それまで彼は、明倫館の筆頭教師を務めていたのですよ。
やっぱり、賢いですね、松陰先生・・・。
 
 
なので、明倫館で学んでいた秀才も、松下村塾に学びに来ていました。
久坂玄瑞や高杉晋作などが、それですよ。
この2人は「識の高杉、才の久坂」といわれる「松下村塾の双璧」でした。
 
 
吉田松陰は、松下村塾では生まれを問わず、また男女の差別もせず、学びたい者は、どんどん受け入れました。カリキュラムはなく、授業時間も決まっていません。各々が自主的に松陰とともに学ぶスタイルの塾でした。
 
 
1858年、日米修好通商条約が結ばれます。
これは交易に関する条約で、日本にとって不利な不平等条約でした。
 
松陰は、これに大反対!
 
この条約を締結した幕府をめっちゃ批判して、倒幕しようと唱えました。そして、尊王攘夷思想を門弟に植え付ける危険人物とみなされて、再び投獄されてしまったのです。
 
 
翌年、29歳のときに、彼は「安政の大獄」で処刑されました。
 
 
江戸の評定所で、松陰が問われたのは、
 
1.梅田雲浜と話した内容
2.京の御所に文書を置いたか否か

 
この2点でした。
この2点は、たいした問題ではありません。
 
そして、この点では、松陰の主張は受け入れられました。
 
 
でも、このとき松陰は、言わなくていい、というか、絶対言ってはいけない「老中間部詮勝の暗殺計画」を、役人に告白してしまったのです。
 
 
この告白が、決定的なものとなりました。
 
自分の主張を言うチャンスだと思ったのでしょうけど、もうちょっと人を見て物を言わなければいけません。弟子たちが危惧したとおりに、なってしまったのでした。

 
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吉田松陰の私塾「松下村塾」のスタイル

 

 
吉田松陰と佐久間象山は、欧米の植民地にならず、日本をなんとか強国にし、列強に認めさせることが必要と考えていた点は同じです。
 
象山は西洋兵学の第一人者として、日本が大国になるためには、大砲など西欧に引けを取らない最新兵器を持ことが必要と考え、開国しようと唱えました。
 
彼は、あくまで科学者、思想家として、日本と世界について考えていました。
 
 
一方、吉田松陰は、ヨーロッパの市民革命家のように激情的です。
 
彼は自分の考えをすべて吐き出し、周りの人たちを感化せずにはいられないような人でした。弟子の前でも喜怒哀楽をはっきり表し、いつも自分の想いをストレートに伝えていたそうです。
 
 
吉田松陰が松下村塾で教えていたのは、「安政の大獄」で逮捕されるまでのたった2年余りの期間でした。
 
 
塾といっても、今の進学塾のような講師が一方的知識を伝える方法ではありません。松下村塾は、近所の萩の若者を集めて、彼の知識や思想を話し、門人と議論を繰り返しながら、考えを深めていくというスタイルです。
 
 
彼は熱心な教師で、自分の知識は出し惜しみせず、全て分け与えました。松下村塾は、師弟が心情的にぴたっと密着した私塾だったのです。

 
 

吉田松陰の「松下村塾」が今も有名なわけ

 

 
松陰が2年余りしか教えていなかった松下村塾。
 
その塾が、今も有名な理由は、近所の主に下級武士を集めて始めた50名余りの私塾にもかかわらず、明治維新を作った多くの人物が、この塾出身だったからです。
 
 
■総理大臣2人
 
伊藤博文・山県有朋
 
■閣僚4人
 
前原一誠(今の防衛大臣)
山田顕義(法務大臣)
品川弥二郎(内務大臣)
野村靖(逓信大臣)

 
 
その他に、高級官僚や軍人になった塾生が12人います。
 
明治維新まで生き延びた塾生の約30%が、新政府の中枢近くで活躍しているのでした。
これは、私塾としては突出しています。
 
志半ばで亡くなった物の中には、
 
高杉晋作
久坂玄随
吉田栄太郎
入江九一
赤弥武人

 
などがいます。
 
高杉、久坂、吉田、入江は、松下村塾の四天王とも言われます。
 
ちなみに、久坂玄瑞は、上級武士で藩校・明倫館随一の秀才でもありました。
高杉晋作を松陰に引き合わせたのは、玄瑞だったのでした。
 
桂小五郎(木戸孝允)のように塾生ではなかったけれど、教えを受けた人もいます。

 
 

おわりに

 

 
松下村塾は、幕末の3大私塾の1つと言われますよ。
 
3大私塾は、この3つです。
 
松下村塾(山口県萩市)
適塾(大阪府大阪市)
感宜園(大分県日田市)

 
適塾(正確には適々斎塾)は緒方洪庵が開いた私塾で、感宜園(かんぎえん)は広瀬淡窓が開いた全寮制の私塾です。
 
どの私塾も、明治時代に多くの人材を輩出しています。
 
適塾、咸宜園は、全国から多くの優秀な若者が集いましたが、松下村塾はそうではありませんでした。
 
そもそも2年ちょっとしか開いていない近所の農民や下級武士を集めて教えていた塾です。塾生も数十人といわれます。
 
そんな小さな私塾から、明治維新の中心で活躍する人材が、多く排出されたところが驚異的なのでした。
 
 
彼の思想に感化された若者の働きですね。
 
過激なだけあって、人の心を動かす力のあるひとだったとわかります。

 
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