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こんにちは~。
 
先日、鹿児島に帰省していた父が、お土産を持ってきてくれました。
 
父は、関西から鹿児島までちょっとそこまで~という感じで車で往復するフットワークの軽いじいさんで、私にはかなり理解できない人です。
 
そして、なぜかいつもお土産は、さつまいもと、どでかいハチミツの瓶(重いです)と「かるかん」なのでした。

 
この「かるかん」というお菓子、すごい「薩摩オシ」で、おもしろいのです。
薩摩の家紋も使っています。お土産には、ぴったりですね。

      ↓

 
中はこんな感じです。
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クリーム色のほうは、カスタードクリームが入っている洋菓子風です。
そして、名前が「かすたどん」……。(笑)
始め、恐竜の名前?とか思っちゃいましたよ。
 
ちなみに、九州地方で有名な「蒸気屋」さんの商品は、他にも「西郷どん」「島津さま」「薩摩男爵」など、ついお土産に買って帰りたくなるネーミングのお菓子多いです。
 
「薩摩男爵」は、芋ようかんです。美味しいです。(*´ω`)
 
真っ白いほうの「かるかん」は、340年ほど前からある郷土菓子なのです。生地が山芋で作られているのですよ。中はあんこです。
 
その薩摩の幕末の太守さま・島津斉彬は、九州にいながら、しかも外様なのに、将軍家の正室に養女を送り込めるほどの力を持つ藩主でした。
 
でもまあ、徳川家との関係は8代将軍・吉宗のころに改善し、11代将軍・家斉の正室・広大院は薩摩の姫です。しっかり前例もあったんですね。
 
「島津にバカ殿なし」は、真実なのでしょうか。
 
今回は、島津斉彬が篤姫を将軍の正室にした理由と、その最期についてお伝えします。

 
 

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幕府に対して開国・公武合体を主張

 

 
斉彬は、松平慶永山内容堂(ようどう)、伊達宗城(むねき)などとともに、次第に国事に携わるようになります。この4人は、「幕末の四賢侯」として、今も称えられていますよ
 
 
そして、彼らは老中・阿部正弘にも、幕政改革を行うよう働きかけました。
 
 
斉彬は父と違って革新的な藩主で、積極的に外国との通商を行い、西洋技術を取り込んで日本の国力を強化することこそ、外国の脅威に対抗すべき手段だと考えていました。
 
 
また、幕府と朝廷が一体となって日本を統合していくべきだという「公武合体」を主張していました。
 
 
このような国策への関与から、西郷隆盛らを京都や江戸に派遣して活動させたのです。

 
 

大奥懐柔のために篤姫を将軍の正室に?

 

 
13代将軍の家定は病弱で、世継ぎを望むのは困難ではないかと思われていました。
 
 
そのため、阿部正弘や島津斉彬、松平慶永たちは、水戸藩の一橋慶喜を家定の後継者14代将軍にしようと声をあげたのです。
 
 
一橋慶喜、最期の将軍(15代)として知られる人物ですね。
 
 
この人は、水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の子でした。でも、この父・斉昭が女癖が悪いわ、質素倹約とうるさいわで、大奥から嫌われていたのです。
 
 
当時、大奥は一大勢力だったので、これはまずいですよ。
 
 
そこで、斉彬が考えたのは、大奥の情勢を内部から変えることでした。そのために島津氏の一族の姫を正室を送り込み、大奥と水戸藩との関係を改善しようと工作したのです。
 
 
そうして選ばれた姫が、大河でおなじみの篤姫(あつひめ)です。
 
 
彼女は、島津の一族の敬子という姫で、関白の近衛家の養子とした上で篤姫(あつひめ)と名前を変えます。こういう養子縁組は、よくあることでした。そして、篤姫は、将軍・家定の正室として迎えられ、大奥に入ったのです。

 
 

井伊直弼と安政の大獄

 

 
篤姫は家定の正室になりましたが、病弱な家定との間に子が生まれることはありませんでした。
 
 
そのうち家定の病が重くなると、次の将軍の座をめぐって、幕府や大名たちが本格的な抗争を始めてしまいます。
 
 
始めは一橋慶喜がよいという声が大きかったのですが、この運動の中心人物だった阿部正弘が、不運なことに病死してしまいます。
 
 
阿部正弘にかわって大老になった井伊直弼(なおすけ)は、紀州藩主の徳川慶福(よしとみ)を推薦していました。
 
 
そして、最後に井伊直弼が強引に慶福を14代将軍にすえて、14代・家茂が誕生し、この権力抗争は決着したのです。
 
 
でも、家茂はまだ10才の少年で、この困難な時代の国政を担う事はできません。だからこそ、自分たちの意のままに操れると思い、彼を将軍に決めたのでしょう。
 
 
こんな時代の将軍こそ英明な人物が必要と考えていた斉彬たち諸大名は、がっかりしました。
 
 
その後、井伊直弼は、日本に不利な「日米修好通商条約」を朝廷の許可なく締結してしまいます。これに尊王攘夷派の大名や志士たちは、カンカンになります。
 
 
徳川斉昭や松平慶永は、井伊直弼に直接会って詰問しましたが、井伊は話を聞くどころか、斉昭と慶永を隠居させてしまいました。すごい強引ですね。
 
 
これを聞いた島津斉彬は、これでは国難は救えないと思い、井伊直弼の動きを封じるために、兵を動かして抗議すると決めたのです。

 
 

島津斉彬の急死

 

 
島津斉彬は、井伊直弼へに抗議するために、5000の藩兵を率いて都へ向かう計画を立てました
 
 
でも、兵の訓練を見ていた最中に倒れ、その8日後に急死してしまいます。
 
 
すごいタイミングですね。コレラだったといわれていますが、確かなことではなく、毒殺されたという説も有力なのです。
 
 
斉彬の実子は、いずれも早くに亡くなっていたので、斉彬の遺言で、薩摩藩主の地位は、弟・久光の子の忠義が継ぎました。
 
 
斉彬の子どもたちの幼い死も、暗殺だったのではないかとささやかれています。島津氏、内部で毒殺説多いですね。物騒です。

 
 

おわりに

 

 
島津斉彬は西郷隆盛がめちゃくちゃ尊敬していた人ということもあり、歴史ドラマでは、貫禄のある主役級の人が演じることが多いです。
 
 
西郷隆盛は、斉彬の死を知ったとき、号泣して殉死しようとしたそうですから。
 
 
彼の賢さは、時代の先を見通す力とと実行力、そして人に対する懐の広さですね。そういう意味では、まさに賢侯の名にふさわしい人だったと思います。
 
 
「島津さま」は、いまだに美味しいお菓子の名になるほど、薩摩の人にとっては敬い親しみのある藩主なのでしょう。

 
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