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こんにちは。
 
 
幕末の激動の時代には、志高い若者たちが、たくさん生まれました。
 
 
黒船を目の当たりにした彼らは、日本を守るためには、江戸幕府を倒して新しい組織を生み出さなければならないと考えたのです。
 
 
今回は、その中でもっとも過激?だった高杉晋作についてお伝えします。
 
 
年表は、この記事の最後にあります。

 
 

吉田松陰の弟子になる

 

 
高杉晋作は、長州藩の武士の家の長男として生まれました。
 
 
結構な、おぼっちゃんですよ。
 
 
頭もキレッキレでよかったみたいで、18歳頃に、吉田松陰が萩で開いていた松下村塾に通い、幕府側から見るとヤバすぎる思想にはまっていきます。
 
 
ここで、後に倒幕の志士として名を残す久坂玄久瑞や、後の初代総理大臣・伊藤博文らと学び、後に「松陰四天王」の1人と呼ばれるようになりました。
 
 
その後、江戸へ出たり、中国の上海へ行って学んだこともありました。

 
 

イギリス公使館を焼討して隠遁

 

 
上海から日本に帰った頃には、尊王攘夷のうねりが、全国で盛り上がりつつあった時期でした。
 
 
そこで高杉は考えます。
「よし、外国人を一掃しよう!」
 
 
そして、久坂玄瑞、井上馨、伊藤博文らとともにとりかかったのが、品川に建設中だったイギリス公使館の焼き討ちです。若き日の伊東博文は、高杉晋作のパシリかと思えるほど、よく振り回されてます。
 
 
高杉晋作は、とにかく思い立ったら即行動の人です。
師匠が師匠なら、弟子も弟子、吉田松陰に負けず劣らずの決断力・行動力なのでした。
 
 
びっくりこいたのが、長州藩。
「なんてことをするんだ、やることが10年早いわ!」と怒られました。
 
 
すると、高杉、「じゃあ、10年、お暇をいただきます」と言い、すぐさま坊主になって隠遁生活を始めたのでした。
 
 
高杉は、西行を尊敬していたので、その名にちなんで「東行(とうぎょう)」と名乗っていたそうです。(私も西行はめっちゃ好きなのですが、高杉と好みが一緒ってなんかいやです)

 
 

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連合国に攻められ「奇兵隊」を結成

 

 
高杉には10年早いといいながら、長州藩は、下関で連合軍と戦争を始めます。
 
 
そして、案の定フランスとアメリカの艦隊に攻め込まれ、風前の灯となりました。これは、あの男を呼び戻さねばということで、高杉晋作は、隠遁10年のはずが2カ月で戻って来ることになったのです。
 
 
その後、結成したのが、あの有名な「奇兵隊」です。
なかなかかっこいいネーミングですね!
 
 
平和ボケした武士だけでは無理だなと思った高杉は、奇兵隊に入隊する者の身分を問わず、農民出身のものも受け入れました。これは、吉田松陰の考え方に習ったものでもあります。
 
 
結局、高杉は3カ月ほどで総督を解任されて、8カ月後には脱藩の罪で投獄されています。(この人は5回ほど投獄経験あり)
 
 
そのころ、長州藩は、前代未聞の危機に瀕していました。
 
 
「池田屋事件」で吉田稔麿(よしだ としまろ)が、「禁門の変」で、入江九一(いりえ くいち)、久坂玄瑞(くさか げんずい)ら、長州藩を担う重要人物の多くが亡くなったのです。
 
 
朝廷の命で、「第一回長州討伐」が行われ、連合軍が海から攻め寄せてきました。絶体絶命のピンチですよ!
 
 
なんとかせねばということで、また、白羽の矢が立ったのがこの男・高杉晋作です。
 
 
高杉は、4カ国連合艦隊との講和使節として全権を任されました。
通訳として連れて行ったのは、これまた伊藤博文です。

 
 

講和交渉の決め手は「古事記の講釈」

 

 
連合国側は、莫大な賠償金と日本の領土の一部を手にいれてやろうと、意欲満々で交渉に臨みました。
 
 
現れた高杉晋作は、烏帽子に直垂といういでたち。
 
 
いつから貴族になったんじゃ?
しかも、めちゃくちゃ堂々としたえらそうな態度だったそうです。
敗軍の代表のはずなんですけど、さすがですね。
 
 
高杉は、賠償金は国(幕府)に払わせて、山口県の彦島租借の件は煙にまこうと考えていたようです。
 
 
そして、ごまかすためにとった策は、
 
 
古事記の講釈
 
 
でした。
 
 
「そもそも日本国なるは高天原より始まる」で、えんえん講釈をし続けます。
 
 
連合艦隊側は、??????
 
 
歴史ドラマでも再現されるこのエピソード、通訳の伊東博文は、とうとう高杉は気が狂ったと思ったらしいですよ。普通に古事記の通訳、できたのでしょうか。
難しそう・・・。
 
 
要するに、「日本は神代の昔から、他国に領土を取られたことがない」と伝えたかったのでしょうけれど、完全に論点をすりかえてごまかしてます。
 
 
結局、この「煙に巻こう作戦」は成功して、彦島租借の件はなかったことになりました。
 
 
あっぱれです!
 
 
連合国側の通訳アーネスト・サトウは、このときのことを振り返り、こう言っています。
 
 
「負けたくせに傲然と怒っていて、まるで魔王のようだった」

 
 

おわりに


 
高杉晋作は、その後も長州と日本のために尽力しますが、その体は病にむしばまれていました。
 
 
彼は、1866年、明治維新を見ることなく、肺結核で亡くなります。享年27歳でした。彼の死からおよそ半月後に、15代将軍・慶喜が、政権を朝廷に返上したのでした。
 
 
これが、かなりやばい吉田松陰のもっとやばい弟子・高杉晋作の人生です。
 
 
最後に、めちゃくちゃ有名な彼の辞世の句を載せておきます。
    ↓
「おもしろき こともなき世を おもしろく」

 
 

高杉晋作の簡単な年表


 
●1839年(0歳)
長州藩(山口県)に生まれる。
 
●1852年(13歳)
長州藩の藩校「明倫館」に入学。
 
●1857年(18歳)
吉田松陰の私塾「松下村塾」に通う。
 
●1862年(23歳)
幕府使節随行員として上海へ留学。
帰国後、久坂玄瑞らと共に、品川のイギリス公使館の焼き討ちする。
 
●1863年(24歳)
「下関戦争」に参加。
長州藩がアメリカ、フランスと衝突し敗北。
長州藩の代表として、外国との交渉を担当。
「奇兵隊」を結成。
 
●1864年(25歳)
「第一次長州征伐」
 
●1866年(27歳)
「第二次長州征伐」
この戦いに参加し、幕府軍に勝利。
 
●1867年(27歳)
肺結核で死去。

 
 

 

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