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こんにちは。
 
2018年大河ドラマ「西郷どん」、原作は西郷吉之助(隆盛)の長男・菊次郎の京都市長就任から始まります。
 
 
今回は、この物語の語り手でもあり、数奇な運命をたどった菊次郎について、お伝えします。

 
 

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奄美大島の子として生まれる

 

 
西郷菊次郎は、「次郎」と名付けられていますが、吉之助(隆盛)の始めの子供(長男)です。
 
 
ではなぜ次男に付ける名前なのかというと、彼が本妻ではなく、西郷吉之助が奄美渡島に潜伏していたときに知り合った女性との子供だからなのです。
 
 
当時、薩摩(鹿児島)の人々は、南の島々で暮らす人々を差別的な目で見ていました。島妻となったものは側室(島妻)で、いずれ武士である吉之助は、きちんとした家柄の薩摩の娘と正式に結婚すると分かっていたのです。島妻は、島から連れだせないという決まりもありました。
 
 
そもそもなぜ吉之助が奄美大島にいるのかというと、井伊直弼による「安政の大獄」で、吉之助は友人の僧侶・月照とともに幕府に追われる身となったのです。
 
 
吉之助は、このとき月照とともに入水自殺を企てますが、吉之助だけ助かり、そのまま奄美大島に逃げ住むこととなりました。(食糧などは、大久保利通が窓口となって薩摩から送られていました。)
 
 
この奄美大島で出会ったのが、西郷吉之助の2人目の妻となる愛加那(あいかな)なのです。
 
 
奄美大島の名家の娘だった愛加那は、西郷吉之助の世話をしているうちに仲良くなり、2人は結婚したのでした。

 
 

「菊次郎」と妹「菊草」が誕生

 

 
やがて、西郷吉之助と愛加那の間に2人の子供が生まれます。
 
 
長男が、西郷菊次郎が生まれ、、妹の西郷菊草(菊子)がお腹の中にいるとき、吉之助に薩摩から戻るようにという命が下ったのでした。(妹の菊草は、のちに吉之助の従弟・大山巌の弟・大山誠之助の妻になった)

 
 

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西郷吉之助が薩摩に戻る

 
 
薩摩藩には「島妻制度」というものがあって、島妻は、本土に連れ帰ることができない決まりありました。
 
 
そのため、吉之助は、愛加那と西郷菊次郎、そしてまだお腹に中にいた菊草を島に残して、薩摩に帰ったのです。

 
 

再び遠島になった吉之助・愛加那との再会

 

 
大久保らの助言で薩摩に戻ることができた吉之助でしたが、島津久光とは犬猿の仲でした。
 
 
せっかく戻れたのに、島津久光に対してはっきりと反対意見を述べ、久光を田舎者呼ばわりしたため、島津久光の怒りがどんどん積み重なっていきました。
 
 
そして、島津久光が京都に上る計画を実行しようとする際、西郷吉之助らは島津久光の行列より先に出発し、「下関で待機」と命じられていたにも関わらず、過激な浪人や志士たちを落ち着かせるために、命を破って大阪に出発してしまったのでした。
 
 
その上、島津久光には「西郷吉之助が志士たちをあおっている」と間違って伝えられたため、島津久光は激怒します。(薩摩の「寺田屋事件」)
 
 
そして、西郷吉之助は、徳之島への遠島となったのでした。
 
 
徳之島は奄美大島より近かったので、吉之助の遠島を聞いた愛加那は、徳之島まで子供たちを連れて会いに行ったそうです。でもそれからすぐ、吉之助はさらに厳しい沖永良部島への遠島を命じられたのでした。

 
 

鹿児島の西郷家で育てられる西郷菊次郎

 

 
それから、また薩摩に戻れた吉之助は、3人目の妻・岩山糸と結婚しました。留守の多い吉之助の代わりに、岩山糸は西郷家を守ることに尽力します。
 
 
そして、1869年、菊次郎は8歳になった頃に鹿児島の西郷家に引き取られて、糸の手で育てられることになりました。

 
 

菊次郎のアメリカ留学

 

 
菊次郎は、父・吉之助の命もあり、1871年に勉強のため上京しました。
 
 
そして、翌1872年、12歳のときに、農業を学ぶように言われてアメリカに留学したのです。ただし、このときは、語学の習得で精いっぱいだったようです。

 
 

菊次郎・西南戦争に参加し片足を失う

 

 
1877年、父の西郷隆盛(吉之助)が中心となって西南戦争が起こります。菊次郎は、父の元でこの戦いに参戦しました。
 
 
戦いで、右足に銃弾を受けてしまい、膝下から切断するという重傷を負いました。負傷していた西郷菊次郎は、ずっと以前から西郷家に仕えていた永田熊吉に背負われて戦場を逃れ、明治政府軍に投降できたため命は助かりました。
 
 
西南戦争は、父・西郷隆盛の自刃・薩摩軍の敗北で終わりました。

 
 

台湾で台北県支庁長、宜蘭(ぎらん)庁長をつとめる

 

 
西郷菊次郎は、その後、許されアメリカ留学の経験を買われて、明治政府の外務省で働くことになりました。
 
 
そして、日本が1894年の日清戦争の後、台湾を手に入れたとき、台湾の台北県支庁長や宜蘭庁長を務めたのです。
 
 
菊次郎は外交官として台湾に赴任し、そこで農地の拡大や道路の整備などのインフラの整備、教育の普及や、洪水を防ぐための堤防を築くなど、住民の生活向上のために、多くの働きをしたといわれます。
 
 
そのとき菊次郎が指導して作られた堤防は、「西郷堤防」と呼ばれているそうです。

 
 

西郷菊次郎。京都市長になる

 

 
日本に戻った西郷菊次郎は、京都市長になります。
 
 
そして、「第二琵琶湖疏水の開削」、「上水道整備」、「道路拡築および市電敷設」という「京都市三大事業」に取り組み、それから6年間、京都市長として、京都の近代化に努めたのでした。

 
 

おわりに


 
明治時代の政治家・外交官・行政官として活躍した西郷菊次郎は、奄美大島で生まれた西郷隆盛の長男です。
 
 
彼はとてもバランス感覚のある有能な指導者だったようですよ。
 
 
大河ドラマの「西郷どん」では、どのように演じられるのか、楽しみです。
 
 
菊次郎さんが西南戦争で片足を失くしたとき、彼を背負って投降し命を助けたのは、西郷家にずっと仕えていた永田熊吉でした。
 
 
実在の人物です。⇒西郷菊次郎を救った影の功労者
 
 
菊次郎の母は西郷隆盛の2番目の妻です・⇒奄美の島妻・愛加那はこちら

 
 
 

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