この記事を読むのに必要な時間は約 10 分です。
こんにちは。
今回は、第14代江戸幕府将軍・徳川家茂の正室となった和宮(かずのみや)についてお伝えします。
彼女は、よく篤姫との嫁姑(のような)関係で取り上げられますが、一体どういう人だったのでしょう。
ここでは、和宮の人生の全体像を簡単に紹介します。
目次
公武合体のため将軍家に嫁がされる
https://ja.wikipedia.org/wiki/和宮親子内親王
和宮(かずのみや)は、仁孝天皇の第八皇女として生まれました。孝明天皇の妹にあたります。
ときは動乱の幕末期、黒船来航による混乱で幕府の権威が低下し、幕府は朝廷との関係を修復するために、宮家から将軍家へ降嫁するよう要請がきました。
和宮13歳の時でした。
でも、和宮には5歳のころから、有栖川宮熾仁親王という婚約者がいたのです。
皇女が関東の無骨な武家に降嫁するなどありえない事ですし、都を離れるなど和宮にとっても考えられない嫌なことでした。
当然、和宮は拒否します。
でも、公武合体が急を要する時勢でもあり、孝明天皇は幕府に押し切られて、和宮の降嫁が決まってしまったのです。
和宮は、嫌ですけど仕方がないので行きますと、嫌な気持ちを全開にした和歌で伝えています。
↓
「住み馴れし 都路出でて 今日いく日 いそぐもつらき 東路のたび」
そりゃあ、京都のほうがいいですよね。
言葉も衣装も食べ物もしきたりも人間の考え方も、あらゆるものが京と江戸では異なります。あまりにもあからさまに嫌がっていたため、将軍家に嫁いだのは替え玉だといううわさがあるほどです。
しかし、婚礼の準備は滞りなく行われ、家茂と和宮は結婚したのでした。
意外にもラブラブ夫婦だった2人
家茂と和宮は、どちらも16歳で結婚しました。初々しい夫婦ですね。
家茂は13歳で大老・井伊直弼らにかつがれる形で将軍職に就きました。そして、彼は病弱でした。
なりたくもない将軍職に就き病弱、13代の家定と同じような文人の将軍ですね。将軍といえば武士の大将、なのに家茂は、これまた家定と同じように、かなり貴族的な優男でした。
和宮の想像していた将軍とはまったく違う、優しくこまやかな気配りをしてくれる家茂に、和宮はだんだん心を寄せるようになります。
家茂は、文化の違う皇室出身の和宮を思いやり、事あるごとに文を書いて送ったのだそうです。
この夫婦の仲がかなりよかったことは、文献にも残っています。
幸せになれてよかったと思いきや、この幸せは長くは続かなかったのでした。
病死した家茂から和宮へお土産が届く
結婚して4年後、家茂は「第2次長州征伐」のため上京し、病に倒れて亡くなってしまいました。
病弱とはいえ、出征前は元気そうにしていたのに。
江戸を出るときに、家茂は京に行くのでお土産は何がよいかと和宮に聞いていました。
和宮が頼んだのは、京の伝統工芸「西陣織」です。
しかし、家茂は大坂城で持病の脚気が悪化し、再び生きて戻ることはなかったのです。
冷たくなった家茂とその遺品とともに、和宮のもとに届いたのは、家茂が京で和宮のために手に入れた西陣織でした。
それは、美しい縁起物の「七宝柄」の織物でした。(こういう柄のようです)
↓
和宮がそのとき詠んだ歌が、残っています。
↓
「空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ」
(この西陣織も、もはや、何の役に立つというのでしょう。美しいこの織りも、貴方が生きていてくれてこそのものなのに)
「三瀬川 世にしがらみの なかりせば 君諸共に 渡たらしものを」
(もしもしがらみがなかったら、あなたと一緒に、三途の川を渡りたいものです)
彼女の悲痛な声にならない叫び声が、聞こえてきそうな歌です。これを詠んだ和宮の気持ちを想うと、本当に切ないです。彼女が家茂のことを想っていたのは間違いありません。
それから和宮は、その西陣織を増上寺に奉納して、それは袈裟に仕立てられたのだそうです。その袈裟は、「空蝉の袈裟」として、今も伝わっています。
大政奉還後、徳川家の存続に尽力
家茂亡き後、将軍職を継いだのは、慶喜でした。でも、慶喜の治世も長くは続かず、1867年、大政奉還がなされました。
その翌年に起こった戊辰戦争は、徳川家が朝敵となった戦いです。朝廷の命を受けた薩長連合の新政府軍は、幕府軍(徳川)を追いたてました。
和宮にとって、実家の天皇家と嫁ぎ先の将軍家が敵同士になったのです。
そのとき、大奥内に同じ立場の女性がいました。13代将軍の未亡人・篤姫(天璋院)です。
篤姫も実家の薩摩・島津家と嫁ぎ先の徳川家が敵同士となっていました。
和宮と篤姫は協力して、和宮は朝廷に篤姫は薩摩に、徳川家の存続を嘆願して、江戸総攻撃をくい止めるよう働きかけたのです。
そして、1868年、江戸城無血開城がなされました。
皇女和宮(静寛院宮)は、明治維新後も京の都へは戻らず東京に住み続けました。彼女が晩年に住んでいたのは、現在の東京麻布にある御邸でした。
1877年、病に倒れた和宮は医師に湯治をすすめられ、療養のために箱根の塔ノ沢温泉へ行きました。そして、そのままその地で亡くなったのです。
享年31歳でした。彼女の病気は、家茂と同じ脚気でした。
1枚の写真を胸に抱き葬られていた和宮
生前から家茂のおそばにいたいという言葉を残していた和宮、彼女は、今も増上寺のお墓の中に、家茂とともに眠っています。
20世紀半ばに、増上寺の徳川家墓所が再開発のため移転されることになり、そのとき和宮を含めた歴代将軍家に連なる人々の遺骨調査が行われました。
和宮の亡骸は、1枚の写真を胸に抱いて葬られていたのです。
写真に写っていたのは、烏帽子(えぼし)と直垂(ひたたれ)を身に着けた若い男性だったことが分かっています。でも、その写真は、その後の取り扱いが雑だったので、太陽光で画像が消えてしまい、現存していないのでした。
なんてもったいないことを~!
その若い男性が誰かははっきりと検証できなかったのですが、衣装や年のころ、そして当時はまだ貴重だった写真に残っていることから考えて、家茂意外にはあり得ないと思えます。
若くして政略結婚で結ばれ、政争に巻き込まれた人生を歩んだ2人、だからこそ、本当に純粋に想い合っていたのではないでしょうか。