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こんにちは。
 
 
13代将軍・家定の正室の篤姫と14代将軍・家茂の正室・和宮は、何かと「ライバル」、もしくは「嫁姑」として話題にされがちです。
 
 
この2人の関係は、大奥に小さい頃からツテのあった勝海舟がよく書き残していますよ。その言葉を参考にすると、この2人は、後世言われるほど険悪ではなかったように思えます。

 
 

始めは確かに険悪だった嫁姑

 

 
1861年、孝明天皇の妹・皇女和宮が将軍家に降嫁しました。
 
 
このとき和宮は16歳、篤姫(天璋院)は26歳でした。意外と篤姫も若いですね。もっとお局っぽい年増かと思ってました。
 
 
和宮にとって将軍家に嫁ぐことは、この記事でも述べているように、ものすごく嫌なことだったのです。
 
 
ですから、彼女は、江戸でも京の都にいたときと同じように京風の衣装やしきたりで過ごしたいと主張し、おつきの女官を京からたくさん引き連れていきました。
 
 
なんといっても公家の頂点・皇女様です。しかも、公家の婚約者がいて、ずーっと一生、都で雅に暮らすものと思っていた姫なのです。
 
 
彼女は大奥のしきたりなんて、そんなに意識していなかったでしょう。
 
 
和宮は、江戸に着いたとき、篤姫(天璋院)へのお土産の包み紙に「天璋院へ」と宛てたのだそうです。
 
 
それを見た篤姫のお付きたちが、徳川家の姑で大奥の最高権力者を呼び捨てにするとはもっての外と、怒りだしたのだそうです。
 
 
宮様の和宮からしたら、武家は格下、悪気があるわけではなく、当たり前のことと思っていたのでしょう。
 
 
また、和宮の輿入れの際に、身の回りの品を徳川家がすべて用意していたのですが、和宮は京都から持ち込んだ品物ばかりを使用していた時期があり、それが嫁姑が不和だとうわさされる原因にもなったようです。
 
 
ともかく、この2人がどういう関係だったのかは、よく分かりません。(実際に顔を合わすことはめったになかったでしょうし)
 
 
ただ、篤姫(天璋院)と和宮、それぞれのお付きの女中たちの間で、いがみ合いがあり、それに尾ひれがついて、後世、面白可笑しく嫁姑問題と取り上げられたのは確かです。
 
 
そもそも大奥というところは、そこで見聞きしたことは身内にも話してはいけないという厳格なルールがあります。もろもろの事情は、明治維新後に、かつての奥女中がらちらほらもらす情報だけなのです。
 
 
大奥にいた人たちの証言は、各自のフィルターがかかっているので、真実からかけ離れている場合があります。そう思うと、まだ部外者の勝海舟が書き残した物の方が信用性が高いと思えるのです。(勝海舟は篤姫とより親しかったですけど)
 
 
勝海舟によると、2人は始めはともかく、そんなに不和ではなかったそうです。そんなエピソードを1つご紹介します。
 
 
将軍と篤姫(天璋院)と和宮が浜御殿に3人でいらしたとき、踏み石の上にどういうわけか篤姫と和宮の草履が上がっていて、将軍の草履だけ下に置いてあったそうなのです。
 
 
そのとき、篤姫は先に降りたのだけど、和宮はこれを見てポンと飛び降り、自分の草履を除けて、将軍の草履を上げてお辞儀をされました。それを見た2人のお付きの女官たちのいがみ合いは、ピタッと収まったのだそうですよ。

 
 

お互い若き未亡人となり同士的な関係に

 

 
いやいやながら嫁いできた和宮でしたが、将軍・家茂との夫婦仲は、大変よかったそうです。
 
 
でも、その後、家茂は3度も長期間、関西に出張していて、夫婦がともに江戸城で暮らした時間は、そう長くはありませんでした。
 
 
でも、家茂は細かい心配りのできる優しい人で、和宮によく文を書いて送ったそうです。
 
 
結婚して4年目、第二回長州征伐で関西に赴いた家茂は、大坂城で病が悪化し20歳という若さで亡くなってしまいます。
 
 
和宮も、そのとき20歳です。
 
 
彼女はそのときの悲しみを和歌に残しています。彼女の心の叫びが聞こえるような想いの込められた和歌ですよ。
  ↓
和宮を簡単に説明★14代家茂への最後の2首の和歌
 
結婚生活がきわめて短く、夫に先立たれたのは、篤姫も同じでした。同じように夫婦仲がよかった将軍家定が亡くなったのは、篤姫が22歳の年だったのです。
 
 
そして、ときは幕末の動乱期、徳川家は存亡の危機に瀕していました。
 
 
このとき、どちらも愛する夫に先立たれた2人は、どちらも夫の家・徳川家を守ろうと決意したのです。

 
 

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江戸城無血開城に尽力する

 

 
家茂は、最後に京都へ発つ前に、自分にもしものことがあれば田安家の亀之助(4歳)を次の将軍にするようにと、言い残していきました。
 
 
その言葉を守り、篤姫は、次の将軍に亀之助を推そうとしました。しかし、西欧の列強が攻めてくるかもしれないこの日本最大の危機の時代に、4歳の将軍では心もとないということで、一橋家の慶喜が将軍家を継ぐことになったのです。
 
 
でも、慶喜はその父の水戸斉昭とともに、大奥での評判がすこぶる悪い人でした。彼は「鳥羽伏見の戦い」の後、大坂から船で江戸へ逃げ帰り、さっさと蟄居を決め込んでしまいました。
 
 
でも、その後も江戸には、まだ多くの徳川家の関係者や幕臣がいます。そして、西からは、錦の御旗をかかげた薩長連合軍が攻めてこようとしていました。
 
 
篤姫と和宮は、それぞれの実家が敵となってしまったのです。篤姫は薩摩に、和宮は京に戻るように要請がありましたが、2人ともそれを拒みました。
 
 
彼女たちは、申し合わせたわけでもなく、それぞれの実家に長い手紙を書き、徳川家の名誉回復のために敢然として戦うと意思表示したのです。

 
 

最後まで徳川家の女として生きた2人

 

 
明治維新後、東京で暮らしていた和宮は、31歳で病死しました。一方、篤姫は、亀之助の養母として、彼をしっかり育てていきます。そして、亀之助は、成長して徳川宗家16代当主・家達(いえさと)となりました。
 
 
そして、彼は版籍奉還によって静岡藩知事になり、貴族院議長・ワシントン軍縮会議全権委員・日赤社長など各種団体の名誉職に就任しました。
 
 
篤姫と和宮が守ろうとした徳川家は、こうして存続していったのでした。
 
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