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こんにちはー♪
最近、雑貨から衣料品まで、ほとんどネットショップでお買い物をしている私ですが、駅前の松坂屋に遊びに行くのは大好きです。
はんなりするんですよね~(´▽`*)
やっぱり、デパートの雰囲気はよいですわ~♪
京都の人たちには、昔からごひいきの百貨店があったそうです。
それは、大丸と高島屋。
どちらも江戸時代に京都で創業されました。
そして、幕末に新撰組の隊服や旗印を作ったお店だったのです。
新撰組の羽織は「大丸百貨店」製品のブランド品
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アニメなどで隊士がよく着ている浅黄色のダンダラ羽織は、新撰組のシンボルのようですね。
この浅黄色のダンダラ羽織は、現在の大丸百貨店で作られたものなのです。
(上の画像のお飾りセットは、違いますよ。)
大丸は、1717年、伏見に「大文字屋」として創業した、京都発祥の呉服店です。
1717年といえば、8代将軍吉宗が将軍になった翌年ですよ。
江戸中期です。
京都の場合、応仁の乱以前に創業なんてお店もありますが、世界標準で考えると、これはほんとに凄いことなんですよ!
この羽織のダンダラは、忠臣蔵の赤穂浪士が吉良邸に討ち入りするときに着ていた羽織の柄をまねしたものだそうです。
そして、浅葱色は武士が切腹の時に着る切腹裃の色だと伝えられています。
しかし、この羽織は、1年ほどで廃止されました。
理由は、隊士が増えて羽織を新たにたくさん作る費用が無かったとも、デザインがダサかったので隊士に不人気だったともいわれます。
この羽織、20着分の値段が約200両(約600万円)だったそうです。
しかも大坂の豪商・鴻池善右衛門に談じ込んで200両のお金を借りて注文したようですよ。
いくら百貨店の商品とはいえ、1着30万円って!!!
それで、デザインも不評だったら・・・いらないですね。
池田屋事件(1864年)のときに着用していたのが、最後の目撃証言です。
その後、隊士たちがどんな服装をしていたのかというと、黒の袴に黒の羽織という、黒づくめだったようですよ。
うん、間違いなく、そのほうがカッコいいと思います。
でも、凄い無駄な出費でしたね。借金したのに勿体ない・・・。
「誠」の旗印は「高島屋」で製作された
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新撰組の「誠」の旗印は、今の百貨店・高島屋で作られたものです。
赤地に金字または白字で「誠」を染め抜いていて、隊服と同じようにダンダラが入っていたと旗がよく知られていますが、全部で6種類のデザインがありました。
この旗印には、誠の武士になりたいという想いと、幕府への忠誠を誓うという意味がありました。
この旗印を見た攘夷志士は、震えあがったといわれます。
なぜ羽織と旗印を別のお店に頼んだの?と思いますが、それは、多分、当時の高島屋が、古着・木綿商だったからではないかといわれています。
「高島屋」の創業は1831年、京都の烏丸松原です。
その名の由来は、創業者の親が滋賀県の高島市出身だったからだそうですよ。
おまけ・土方歳三は松坂屋で奉公していた!
土方歳三が、まだ日野にいた11歳の頃、跡取りでなかった彼は、丁稚奉公に出される事になりました。
その奉公先は、当時の江戸で有数の大呉服屋「伊藤松坂屋」だったのです。
この呉服屋さんは、現代の松坂屋です。
とても大きな呉服商なので、当時、奉公人にとってはたいへん仕事が厳しかったと思われます。
そこで、歳三は1年ほど働きましたが、あるとき、仕事ができないのを叱られ、番頭に叩かれて、ブッちぎれてしまいます。
そして、そのまま店を出て、家まで40㎞もの道のりを歩いて帰ったそうです。
なんとも副長らしいエピソードなのでした。
2010年、「松坂屋」は「大丸」と経営統合し、「大丸松坂屋百貨店」となりました。
これらのお店の歴史は、これからもまだまだ続きそうですね。
興味深いです。(´・ω・)
まとめ
新撰組の羽織と旗印は、壬生浪士組が新選組として会津藩のお抱えになったときに、作ろうと決まりました。当時の局長は、芹沢鴨でした。
羽織と「誠」の旗印は、今では、新撰組のシンボルとなっています。
★ 浅黄色のダンダラ羽織
赤穂浪士の討ち入り時の羽織をまねたものだった。
現在の大丸百貨店に発注した。
★ 「誠」の旗印
幕府への忠誠を誓う意味と、誠の武士になりたい想いが込められた。
旗印は、赤地に金色か白色の「誠」の文字を染め抜いたものが知られるが、全部で6種類あった。
ダンダラ羽織は1年ほどで着用されなくなり、それ以後、新撰組隊士は、黒づくめのファッションになった。