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こんにちは。
フランス王太子妃になったマリーアントワネットは、いよいよパリ郊外のヴェルサイユ宮殿で社交界デビューします。
フランスの社交界は、ルイ14世がパリからヴェルサイユに移動して作り上げた、ガッチガチの形式に縛られた窮屈な世界でした。
そして、当時のフランス国王は、王太子ルイ=オーギュスト(後の類16世)のお祖父さん、ルイ15世でした。
ルイ15世は、ハンサムで好色家として知られている王です。
若い頃からネール姉妹、ポンパドール婦人などの「公式寵姫(公妾)」を持ち、晩年は、平民出身のデュ・バリ―夫人に首ったけでした。(※フランスには公式の愛妾というのが認められていたのです。変な制度ですね)
マリーアントワネットがヴェルサイユに来たとき、そこはどんな場所だったのでしょう。
◆窮屈で堅苦しいフランスの宮廷
フランス宮廷は、オーストリアと比べると儀式や決まりが多く、マリーアントワネットから見ると、貴族たちは「礼式の奴隷」のように思えたのでした。
オーストリアでもハプスブルグ家特有の大げさな儀式はありましたが、その多くは「式典」の場のみだったのです。
一方、フランス宮廷は、常に作法、作法、作法に縛られ、うなづくときの頭の下げ方や、先に立って歩くときの足の出し方など、すべてに厳格なマニュアルがあったのです。
何よりも自由でいたいと強く願うマリーアントワネットにとって、「何?このルール、まったく意味がわかりませんわ」という感じでした。マリーアントワネットにとって、フランスの宮廷は、とても息のつまる窮屈なところだったのです。
彼女は本を読むことが嫌いで、語学が苦手でした。じっくり腰をすえて物事に取り組むのが、超苦手だったのです。
マリーアントワネットは、フランスであてがわれた家庭教師を、オーストリアにいたころと同じように煙に巻き、読書も勉強もまったく身が入らない様子でした。
遊びたい、遊びたい、遊びたい、遊びたい・・・・
マリーアントワネットの若さは、刺激と快楽を求めていたのです。
それを何より危惧していたのは、彼女をもっともよく知る母のマリア・テレジアでした。マリア・テレジアは、享楽的で深く物事を考えないこの娘が、宮廷の陰謀を本能的によけるなんてことはできないと予測していたのです。
それで、信頼するメルシ伯をお目付役にし、彼と綿密に連絡しあっていたのでした。でも、メルシ伯からのどの報告書を読んでも、母の不安が解消されることはありませんでした。
◆ルイ15世の3人の娘と愛妾デュ・バリ―夫人
当時、ヴェルサイユには、ルイ15世の3人の娘が残っていました。ルイ=オーギュスト(後の類16世)の叔母、つまり、マリーアントワネットの叔母に当たる女性たちです。
彼女たちは、王の娘でありながら、少しも権限をもっていなかったので、宮廷中の貴族にないがしろにされていると感じていました。(実際、されていたようです)
本来、宮廷でもっとも力を持つ女性は、彼女たちの母親・ルイ15世の妻(王妃)であるべきです。でも、王妃はとっくに亡くなっていました。
そして、今、ルイ15世の隣にいるのは、最下層からのし上がった元娼婦のデュ・バリー夫人でした。それは、王の娘たちにとって許しがたいことでした。
最下層から王の公的寵姫へと最速で人生すごろくを上り詰めたこの女性、国王に近づくために、もちろんかなりあくどい事をやらかしていますが、もしかしたら、ものすごーく魅力的な女性だったのかもしれませんよ。
肖像画で見る限り、なかなか優雅な雰囲気を漂わせております。かわいらしい感じですね。グレーがかったピンクとグリーンが、ロココのガーリー色で素敵です♥
デュ・バリー夫人は、少なくとも、ルイ15世にとっては、女神のような女性だったのでしょう。最期まで最愛の女性でしたから。
こういう経歴の人は、ものすごく「欲」の強い人だと思うので、成り上がって有頂天になりつつ、嫉妬と嘲笑の嵐の中で生きなければいけなかったでしょう。
王の3人娘は、なんとかして、この不潔な女を引きずりおろしたいわけです。でも、権力がないのでどうしようもない、だから陰口をたたいたり、悪口雑言、うわさをばらまいたり、遠回しにぐさっと意地悪をしたりという幼稚なことをするしかなかったのでした。
国王の3人の娘VS国王の公的寵姫
マリーアントワネットが放り込まれたフランス宮廷は、このような状況だったのです。女の戦いでどろどろです。
◆マリーアントワネットVSデュ・バリ―・戦いの結末は?
マリーアントワネットが宮廷に行くと、彼女の3人の叔母(国王ルイ15世の娘たち)が、手ぐすね引いて待ち構えていました。
もちろん、マリーアントワネットを丸め込んで、デュ・バリー夫人にぶつけようという魂胆です。
叔母たちは、マリーアントワネットに王の愛妾の汚さを言葉の限り伝え、ひどい女だと刷り込みます。もともと物事を深く考えないマリーアントワネットはすぐにそれを鵜呑みにして、ふしだらで低俗なとんでもない人がこの宮廷を牛耳っていると、プンプンです。
彼女が生まれ育った風紀に厳しいマリア・テレジアのオーストリア宮廷では、愛妾が権力を握ることなど考えられなかったのです。
マリーアントワネットは、叔母たちから聞いたとおりのデュ・バリー夫人の悪口を、母のマリア・テレジアに手紙で伝えています。
そうして、マリーアントワネットは(叔母たちの思うつぼなのですが)、デュ・バリー夫人を、まるでいないかのように無視することにしたのです。
フランスの宮廷は、礼式の奴隷のようにすべてのことがルールにのっとって行われていました。
その1つとして、身分の低い者が高い者へ話しかけてはいけないというルールがあったのです。
つまり、デュ・バリー夫人は、自分からマリーアントワネットに話かけることはできず、声をかけられるのを待つしかない立場だったのです。
王の公的寵姫といっても、王太子妃で由緒あるハプスブルグ家の皇女マリーアントワネットには、当然ですが太刀打ちできません。
マリーアントワネットは彼女を無視し続け、周りの人は、この静かな戦いの決着がどのようにつくのかと、大いに興味を持ってうわさしたのでしたえ。
結局、最後には、ルイ15世がメルシ伯を通じてなんとかするように忠告し、メルシ伯はマリアテレジアに手紙を送って、オーストリア側からも圧力をかけて、マリーアントワネットがデュ・バリー夫人に声をかけるようにお膳立てするこになったのでした。
それでも1度目は、例の3人娘(といってもおばさんですが)に邪魔をされ、なんとか2度目に、シュミレーションどおり、マリーアントワネットは、屈辱感にまみれながら、デュ・バリー夫人に一言、ささやくように話しかけたのでした。
1772年の1月1日、それはたった7語の言葉でした。
「イリ・ヤ・フル・ソワール・ア・ヴェルサイユ」(今日はヴェルサイユもたいへんな賑わいですこと)
後に、彼女は母のマリア・テレジアに宛てて、ひどく名誉を傷つけられた、あの人はもう2度と私の言葉を聞くことはないでしょうと書き送っています。
この一件から、人が良く気ままで軽薄なマリーアントワネットは、実は、自分の名誉を傷つけられると猛然と反発する気高い魂を持っている女性だったとわかります。
彼女は、本当にその後、デュ・バリー夫人に声をかけることは2度となかったのです。
◆おわりに
マリーアントワネットは、その後、パリ凱旋で王太子妃として、パリ市民から大きな歓声と拍手で迎えられました。若く美しい王太子妃を、パリ市民は大歓迎したのです。
それから2年後、1774年に、ルイ15世が崩御しました。(死因は天然痘)
国王の権力あってこそ宮殿で思いのままにふるまえた愛妾・デュ・バリー夫人は、それからどうなったでしょう?
それは、また次の機会にお伝えします♪
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