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こんにちは。
 
 
マリーアントワネットがヴェルサイユ宮殿で社交界デビューしたとき、宮廷中のうわさになったのが、ルイ15世の愛人・デュ・バリー夫人との対決でした。
 
 
ルイ15世は、若いころはなかなかハンサムな王だったらしく、在位が長くて、晩年はほとんど政治に関心はなかったといわれます。
 
 
そんな彼は、自分の快楽を追求し、1人の女性を気に入って常にそばに置くようになりました。
 
 
それがデュ・バリー夫人です。

 
 

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◆貧しい私生児・ジャンヌ

 

【出典元:Wikipediaデュ・バリー夫人】

 
デュ・バリー夫人は、貧しいある女性の私生児・ジャンヌとして生まれました。
 
 
7歳の時、再婚した母に引き取られてパリで暮らし始めたジャンヌは、金融家の継父からとってもかわいがられて、しっかりした教育を受けさせてもらえました。
 
 
この頃から、人に(特に男性に)好かれていますね。
 
 
15歳で修道院での教育を終えて、ある家の侍女になりましたが、素行上の問題から解雇されました。おそらく男性関係でしょうね。
 
 
その後は、男性遍歴を繰り返して、娼婦同然の生活をしていましたが、お針子として「ア・ラ・トワレット」という洋裁店で働けるようになりました。
 
 
ジャンヌは大変美しいと評判の娘で、やがてデュ・バリー子爵の目に止まりその愛人になりました。そして、貴婦人のような生活と引き換えに、子爵の連れてくる男性とベッドを共にする暮らしをしていたのです。
 
 
いいのか悪いのかよくわかりませんけど、彼女のことだからそれなりに楽しんでいたのかも・・・?
 
 
ジャンヌの賢いところは、そこで出会った家柄のよい貴族や学者、アカデミー・フランセーズ会員などの相手をしているうちに、社交界でも通用するような話術や立ち振る舞いを会得したところです。向上心がありますよ。
 
 
そうして、1769年、ルイ15世に紹介されたのです。ちょうど、5年程前に最愛の公妾ポンパドゥール夫人を亡くしていたルイ15世は、すぐにジャンヌの虜(とりこ)になりました。
 
 
こうしてジャンヌは、デュ・バリー子爵の弟と名目上結婚して「デュ・バリー夫人」という名を与えられ、正式にルイ15世の公妾になったのでした。

 
 

◆マリーアントワネットに毛嫌いされるも評判はよかった

 

【出典元:Wikipediaデュ・バリー夫人】

 
フランス宮廷に入ったデュ・バリー夫人は、その少し後にオーストリアからフランス王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)に嫁いでいたマリー・アントワネットと対立しました。
 
 
これには、ルイ15世の3人の娘が絡んでいたのですが、娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの教育を受けたマリーアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を徹底的に憎みました。
 
 
でも、実際にデュ・バリー夫人は、朗らかで分けへだてなく人をもてなし、愛嬌のある親しみやすい性格だったため、宮廷の貴族たちからは好かれていたそうです。
 
 
マリーアントワネットとの確執は、こちらでお伝えしています。⇒★ヴェルサイユの女の戦い

 
 

◆ルイ15世の死後どうなった?

 

 
たいてい、身分の低い後ろ盾のない愛妾は、国王が亡くなった後、悲惨な運命をたどるものです。
 
 
でも、このデュ・バリー夫人は違いました! さすがなんですよ!
 
 
1774年、デュ・バリー夫人は、天然痘で倒れたルイ15世を心を込めて看病していました。
 
 
しかし、愛人をそばに置くと最後の懺悔を受けられないと神父に脅されたルイ15世は、深い悲しみにとらわれながらも、デュ・バリー夫人を手放すことを決めます。
 
 
そうしてデュ・バリー夫人は、追放同然に宮廷を追われ、ポン・トー・ダム修道院へ入るよう命じられたのでした。
 
 
でも、その後、宰相ド・モールパ伯爵やモープー大法官など、これまでに築いてきた人脈を駆使して頼み込み、パリ郊外のルーヴシエンヌで、優雅に過ごせるようになったのです。
 
 
彼女の「人に好かれる」という特徴が、ここにも表れていますね。救いの手を差し伸べてくれる男たちが、この不遇の時代にもいたのですよ。
 
 
それからは、ド・ブリサック元帥、シャボ伯爵、イギリス貴族のシーマー伯爵など、いろいろな貴族男のベットの上を渡り歩いて楽しく暮らしていたようです。
 
 
さ、さすがです・・・・・(汗)

 

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◆フランス革命で一時イギリスに亡命

 

 
1789年に、フランス革命が起こり、当時、愛人だったパリ軍の司令官ド・ブリサック元帥が民衆に虐殺されてしまいました。
 
 
彼女は、他の多くの貴族たちと同じく、1791年にイギリスへ逃れ、亡命貴族たちを援助してあげました。(←こういうところが好かれるのだと思います)
 
 
でも、1793年に、なぜか帰国し、革命派に捕らわれてしまったのです。

 
 

◆最後はギロチンで処刑★悲壮な叫びが鳴り響いた

 

【出典元:Wikipediaデュ・バリー夫人】

 
1793年、12月、デュ・バリー夫人は、恐怖政治のもと、処刑されることになりました。
 
 
彼女は、このときの死刑執行人のサンソンも、よく知る仲だったのです。やっぱり顔が広いですね。
 
 
デュ・バリー夫人は、泣いてサンソンに命乞いをしました。あまりにも哀れで耐えられなくなったサンソンは、刑の執行を息子に変わってもらいます。
 
 
結局、デュ・バリー夫人は処刑されましたが、彼女は恐ろしさのあまり泣き叫び、最後の瞬間まで集まった群衆に慈悲を乞い続けたそうです。
 
 
なんでイギリスに亡命していたのに、戻ってきたのでしょうね。
 
 
おそらく、パリの正しい状況が伝わっていなかったのでしょうけれど、そのまま外国にいれば天寿をまっとうできたかもしれません。
 
 
デュ・バリー夫人の最期は数人の生き証人が記録に残していますが、彼女の知り合いだった死刑執行人のアンリ・サンソンは手記にこう記していました。
 ↓

「処刑されるみんながデュ・バリー夫人のように泣き叫んで命乞いをすればよかったのだ。
そうすれば、民衆もその事の重大さに気付き、恐怖政治はもっと早く終わっていただろう」

 
 

◆おわりに

 

「ベルサイユのばら」など、マリーアントワネットが中心の作品では、デュ・バリー夫人は「女狐」っぽいステレオタイプの悪女として描かれがちです。
 
 
でも、ツヴァイクはデュ・バリー夫人について、そんなに悪意のある書き方はしていません。

 
 

「さて、デュ・バリーだが、彼女は決して悪意のある女性ではない。生粋の庶民なので、下層階級出身者の持つ長所はすべて持っている。」
 
「成り上がり者らしい気のよさ、自分に杭的な物を誰でも仲間扱いする分けへだてのなさ。(中略)決して悪い女でも嫉妬深い女でもない。」
 
【出典元:「マリーアントワネット」シュテファン・ツヴァイク】

 
 
男性遍歴がすごいですが、時代や国によって「性の常識」は全然違うので、いちがいに非常識とはいえません。
 
 
庶民の人懐っこさ、気取りのなさをめいっぱい持っていて、なおかつ、貴族的なふるまいができた美貌の女性だったのでしょう。
 
 
かなり興味のある気になる女性なのでした。

 

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