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こんにちは。
 
 
14歳でオーストリアからフランス王家に嫁いできたマリーアントワネット。
 
 
ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)は、錠前作りと狩りが趣味で、パーティ嫌いという内向型、しかも、ほとんど女性に関心がなく、他国から嫁いできたマリーアントワネットにとって、ちょっと冷たい夫でした。
 
 
夫婦関係というものは、普通なら極めてプライベートな問題なのですが、この夫婦の場合は、まったく違います。
 
 
王と王妃に子供ができないというのは、国家の一大事、大きな公的問題なのです。
 
 
決断力のない優柔不断なルイ16世にほんっとうにイライラするのです。
 
 
もし彼が国王でなかったなら、思いやりがあるという大きな長所がありましたが、彼はフランスの国王でした。決断力のなさは、致命的です。
 
 
ダメダメダメ夫です~。

 
 

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◆王太子ルイ・オーギュストとのベットの秘密

 

 
マリーアントワネットと結婚したとき、ルイ・オーギュスト(後の類16世)は16歳でした。
 
 
高校生ぐらいですね。若いです。・・・にもかかわらず、彼は妻を無視し続けます。
 
 
ツヴァイクの『マリー・アントワネット』によると、ルイ16世は若くて美しい妻をいたわり優しさで包みました。でも、同じベッドで休みながら何もせず、というか、実際にはがんばったけどできなかったそうです。
 
 
マリーアントワネットに愛情を注ぎながらも、性的不能だったようです。それはちょっとした手術で解決することだったのに、ルイは、アソコにメスを入れるのが怖かったのか、うじうじと決断せずに7年間もこの問題を放置し続けたのです。
 
 
その間、マリーアントワンネットは、うわさ好きのフランス宮廷内で、嘲笑と好奇の目にさらされ続けたのです。

 
 

◆フランス宮廷で噂と嘲笑の的に

 

 
王の結婚・出産自体は「公的」なことなので、ルイ16世が性的不能ということは、宮廷のほとんどの人が知っていました。今の一般人のようなプライベートな不妊問題とは違うのです。
 
 
子供ができなかった7年間、マリーアントワネットと母のマリアテレジアは、何度も何度もこの件について、真面目に詳細に手紙のやり取りをしています。
 
 
マリーアントワネットが世継ぎを産むかどうかというのは、フランス国内だけでなく重要な外交問題でもあったのです。
 
 
フランス宮廷では、マリーアントワネットが男性と仲良く歩いていると、それだけでうわさの的になり、挙句の果てには、女友だちとの仲も疑われました。
 
 
ゴシップ好きのフランス宮廷では、王と王妃の寝室の話題は、嘲笑するうわさ話にもってこいのネタだったのです。
 
 
そうして、孤独感を強めたマリーアントワネットは、寝室に戻らず、明け方まで舞踏会に出てお洒落や賭博にのめり込んでいったのでした。
 
 
でも、それは一時の憂さ晴らしにはなっても、けっして、心の底からの楽しみにはならなかったでしょう。そして、そのうわさは宮廷内にとどまらず、パリ市内にも、ゴシップ記事として、ばらまかれたのです。
 
 
フランス革命が起こったときには、すっかりパリ市民に「王妃はふしだらで浪費ぐせのあるオーストリア女」と思いこまれていたのでした。

 

 

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◆結婚して7年目にようやく待望の出産

 

 
マリーアントワネットは、1778年にようやくルイ16世との第一子・マリーテレーズを出産しました。
 
 
きっかけは、マリーアントワネットの兄・ヨーゼフ(後のオーストリア皇帝)が、ヴェルサイユを訪れてのことでした。
 
 
そのとき、ヨーゼフは、おそらく母マリアテレジアのに頼まれて、ルイ16世と話をしました。そして、ルイに医師の診断を受けて不妊治療を受けるようにと、説得したのです。
 
 
それで勇気づけられたのか、さすがに妻の兄に言われては決断しないわけにはいかないと思ったのか、ルイ16世はようやく手術を受ける決心をしたのでした。
 
 
そうして、しばらくするとマリーアントワネットに懐妊の兆候がみられたのです。
 
 
なんで、7年もうじうじしてたんじゃ~~~~!!
 
 
その間、「世継ぎの出産が最重要任務」だった妻は、宮廷中のさらし者になっていたんですよ。不妊はルイ16世のせいだったんですよ。しかも、簡単なオペですぐに治ったんですよ!
 
 
この優柔不断さ、許せません。
 
 
マリーアントワネットの評判がたおちのきっかけを作ったのは、この人じゃないかと思えるぐらいです。
 
 
現に、マリーアントワネットは、子供と一緒に過ごすようになってから、舞踏会は相変わらず好きだったけど、賭博はピタリとやめたそうです。(参考:『マリーアントワネット』ツヴァイク)
 
 
そして、小さな離宮・プチトリアノンを与えられ、そこで子供たちと「田舎暮らしごっこ」をして、かなり落ち着いた暮らしをするようになったのです。軽薄な性格は一生治らなかったようですが・・・。
 
 
1778年12月に、第一王女マリーテレーズを出産した後、マリーアントワネットは1781年に、待望の王太子・ルイ=ジョセフを出産しました。
 
 
これで、ようやく彼女のフランス王妃としての地位は、不動のものとなったのです。・・・なるはずでした。
 
 
というのも、ちょうとこの頃に、パリ市民は「アメリカ独立戦争」やジャン・ジャック・ルソーの「啓蒙思想」の影響を受け、革命への助走を始めていたのです。
 
 
そして、彼女の最大の援助者・母のマリア・テレジアが、王太子ルイ=ジョセフの誕生を知る前に、亡くなったのでした。
 
 
マリーアントワネットは、生涯で4人の子供を産みました。そのうち、革命勃発時に生き残っていたのは、2人です。

 
 

◆おわりに

 

 
マリーアントワネットのヴェルサイユデビューは、かなり大変でした。
 
 
ここは後宮かと言いたくなるような、女たちの陰謀渦巻く中に、宮廷の状況をまったく知らない14歳の外国の少女がほうりこまれたのです。
 
 
ルイ15世の愛妾・デュ・バリー夫人との優位争いは、マリーアントワネットと周りの人々の性格や考え方がよくわかる事件でしたよ。
 
 
それを、次回お伝えします。⇒★次へ続く

 
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