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こんにちは。
 
先月、陶芸の窯を訪ねて五条に行きました。五条は、京都駅と四条という2つの繁華街の間にあるので、けっこうごちゃごちゃしています。
 
 
ここはかつて清水焼(京焼)の窯元が多かった所で、今もその名残が残っています。その影響で、お茶屋さんも多い地域なのです。
 
 
また、五条楽園とよばれる遊郭があった場所としても知られる場所で、今でも行けば、「あー、この辺りね…」と雰囲気で分かります。
 
 
そして、ここには若き源義経(牛若丸)と弁慶が出会った伝説が残る「五条橋」があります。
 
 
今の五条橋は、大きな橋(五条大橋)なのですが、平安時代はこの橋はありませんでした。
 
 
牛若丸と弁慶が出会った「五条橋」は、別の橋なのです。

 
 

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牛若丸と弁慶の伝説の橋は「松原橋」…ってそれどこ?

 
 
こちらが、今年の桜の季節に「京阪五条駅」から撮った「五条大橋」です。
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「五条大橋」の道路は両端に歩道のある大きな車道、国道一号線です。
 
 
この橋の近くに牛若丸と弁慶の伝説をモチーフにした石像があって、観光バスで訪れるとバスガイドさんがその話をしてくれます。
 
 
通説では義経と弁慶はこの五条大橋の近くで会ったとされているですが、実際には違います。そして、決戦の場も橋ではなく「清水寺」でした。
 
 
彼らが出会ったという平安時代の「五条の橋」は、もう少し北側にかかっているこちらの橋です。五条側から撮ってます。

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ちょっと遠くに見えますが、この橋は現在「松原橋」と呼ばれる橋です。
 
 
この橋のある通りが「松原通」という東西にのびる通りで、橋を渡ってまっすぐ東に進むと、清水寺に行きつくのです。(←ここ大事なポイントです!)
 
 
『義経記』によると、弁慶は義経がこの「五条の橋」(松原橋)を通って清水寺に詣でるだろうと予想して待ち伏せします。
 
 
だから、伝説の「五条橋」は、清水寺に続く「松原通」の橋以外にあり得ないのでした。
 
 
清水寺の参道に続く「松原通」は、今は目立たない通りですが、おもしろい道なんですよ。この通りの北側が「八坂神社」の氏子町、南側が「伏見稲荷大社」の氏子町と分かれているのです。
 
 
つまり、この道は2つの大きな神社の勢力の「境界線」なのです。
 
 
「京都市内なのに伏見稲荷大社の氏子?」と思われるかもしれませんが、実はもともと豪族の秦氏が本拠地にしたのは、京都駅南側の東寺のあたりの「伏見稲荷御旅所」でした。
 
 
だから、今の京都駅周辺が、伏見稲荷大社の氏子町になるんです。おもしろいですね。
 
 
その後、泰氏の稲荷信仰が広まっていき、ご祭神を伏見の「稲荷山」に祀ったため、もともと伏見にいた渡来系の藤森氏の神社が南に追いやられてしまったと考えられています。
 
 
その追いやられたのが、「とうらぶ」ファンおなじみ鶴丸さんの聖地「藤森神社(ふじのもりじんじゃ)」なのです。
 
 
だから、今でも「伏見稲荷大社」のすぐそばの土地がなぜか「藤森神社」の氏子町なのでした。
 
 
昔の豪族の勢力関係が、今につながっているっておもしろいですね。
 
 
話がズレてきたので戻しますが、「松原橋」は義経と弁慶の伝説の中でも大事な場所です。

 
 

義経(牛若)と弁慶が最初に出会った「松原橋」=「五条の橋」

 

 
義経と弁慶の伝説の大元は『義経記』です。
 
 
それによると、2人は最初に「五条天神」で出会って手合わせし、翌日、「清水寺」で再び刀を交えで勝敗が決しました。
 
 
「五条の橋」ではなく「五条天神」・・・?
 
 
そう、相手を打ち負かして999本の「太刀」(たち)を奪った弁慶は、「1000本目に奪う太刀が良い太刀でありますように」と五条天満宮で祈願していたのです。(五条天満宮は五条橋のちょっと西側)
 
 
そこに、なぜか笛を吹きながら義経(牛若)が通りがかったのでした。
 
 
それを目にした弁慶は、「よい太刀を持っているな、それにいかにも弱そうなヤツ」と思い、義経に襲いかかったのです。
 
 
ところが、義経は弁慶の胸を蹴って塀(へい)の上に飛び上がり、自分の太刀を足で踏んで折り曲げてから、弁慶目がけてその曲がった太刀を投げつけたのでした。(「刀剣」らぶな私としては、「太力」になんてことすんだーっ!と思うんですけど)
 
 
そして、義経はひらりと塀から飛び降りて弁慶の太刀を空中でひらひら舞うように交わし、そのまま消え去ったのでした。
 
 
ということで、この夜は、はっきりした勝負はつきませんでした。(いや、義経の勝ちだろと思いますけど…)

 

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翌日、弁慶が「清水寺」で待ち伏せを?

 

 
若い優男・義経(牛若)に軽くあしらわれてしまった弁慶は、翌日になってもムカついてました。
 
 
そして、彼は何とか仕返しできないかと考えます。実は、その日は清水寺の「縁日」の日でした。弁慶はもしかしたヤツも来るのではないかと思い、清水寺の山門前で待ち伏せすることにしました。
 
 
しばらくすると、弁慶の予想は的中し、義経が現れました。
 
 
しめたと思って義経の前に立ちはだかった弁慶は、今度は薙刀(なぎなた)で斬りかかりました。
 
 
でも、またまた義経にひらりと交わされ、軽くあしらわれてしまいます。
 
 
弁慶はむきになって義経を追いかけましたが、結局、取り押さえられ、感服して彼の家臣になったのです。
 
 
その最後の決戦の場は、清水寺の本堂の「清水の舞台」だったと伝わります。

 
 

「五条の橋」が登場するのは他の逸話からだった

 

 
では、「五条橋での出会いはいったいどこから?」となりますね。
 
 
『義経記』には書かれていないのですが、『義経記』を元にして書かれた御伽草子や謡曲の『橋弁慶』の中に「五条の橋」が登場するのです。また、明治以降の唱歌の歌詞にも出てきます。
 
 
一般に伝わる「昔話」は『義経記』より謡曲『橋弁慶』のあらすじにそって広まったので、「五条橋の出会い」が通説となっているんですね。

 

 

「五条の橋」を松原橋から五条大橋に変えたのはアノ人だった!

 

 
平安時代の「五条の橋」の南側に「五条大橋」をかけ、もともとあった「五条の橋」を「松原橋」と呼ばれる橋にしたのは豊臣秀吉です。
 
 
清水寺の参道に続く「松原通」は、五条大路とよばれる平安時代の大通りでした。かつては、たいへん活気のある大路だったのです。
 
 
でも、時代が下って豊臣秀吉の時代になると、事情が変わってきます。
 
 
「五条大路」より今の国道一号線のほうが大通りと呼ばれるのにふさわしくなってきたのです。なぜなら、国道一号線は伏見へ続く「伏見街道」への入り口だったからでした。
 
 
松原橋をとおって東の清水寺までぶらり散策すると、当時の義経と弁慶の足取りをなぞれます。ちないに、現在の「清水通」も松原通の一部なのです。
 
 

 
 

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