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京都の方広寺には、京都の知恩院、奈良の東大寺とともに三大梵鐘といわれる大きな鐘があります。
 
知恩院や東大寺に比べると、お寺の知名度は低いのですが、ここの鐘は、歴史のターニングポイントになる大きな事件のきっかけになった鐘なんですよ。
 
今回は、「方広寺の鐘銘(しょうめい)事件」についてお話しします。

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方広寺とは

 
方広寺は、京都府京都市東山区にある天台宗の寺院です。
 
もともと、1596年に、豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するためのお寺として建てられたお寺です。
 
大仏を安置しようと考えたのは、1567年に、奈良の東大寺の大仏が、松永久秀の兵火によって焼かれたからです。
その代わりにと、作られたのですね。
 
ちなみに、東大寺の大仏は、過去に2回焼失しています。
1回目は1180年の「源平の合戦」で平重衡の兵火によって焼かれました。
 
2度目の大仏焼失を受けて、豊臣秀吉は仏の加護を受けるため、以前の東大寺のものをはるかにしのぐ、巨大な大仏と大仏殿を建立したのです。
 
でも、運悪くその後すぐに慶長伏見大地震が起こってしまいました。
 
この地震の損害は非常に大きなもので、方広寺の大仏もそのときに大破してしまいます。
 
それを後に復興したのが、秀吉の子・豊臣秀頼なのです。

 

方広寺の鐘銘事件

 

 
豊臣秀頼は、1612年に京都方広寺の大仏を復興して、1614年には「梵鐘」を鋳造します。
 
その鐘銘に刻まれた多くの文字の中に、「国家安康」「君臣豊楽」という字があったことから,徳川家康は「家康」を2つに割いて、豊臣の繁栄を願う意味が込められた「「関東不吉の文辞」だと言いがかりをつけます。
 
これが、いわゆる「方広寺鐘銘事件」です。
 
これに難癖をつけた家康は、豊臣家を「大坂の陣」へ追い込んでいったといわれています。
 
大坂の陣から3年後に、豊臣家は滅びました。
 
 
この問題、家康らしいいやらしさがすごく出ている文句付け方なので、豊臣方を追い詰めるための言いがかりだったと、広く知られています。
 
でも、最近の研究では、この事件は徳川家康が難癖をつけたのではなく、豊臣方の徳川への挑発だったととらえる説が有力なんですよ。
 
現代人の感覚では、こんな文字で名前を分断されたなんて、言いがかり以外のなんでもないと思えますね。
 
ここで考えなければいけないのは、現代人と当時の人では、「本名=諱(いみな)」に対する捉え方が全く違うということです。
 
当時の人にとって「諱」(いみな)は、ものすごーく大切な、自分の魂のようなものだったのです。
 
「諱」(いみな)は、本人の魂がこもっているもの、本人そのものと考えらえていました。
 
徳川家康の場合は「家康」が「諱」です。
 
今、私たちが歴史を学ぶとき、当たり前のように「徳川家康」と本名(諱)で習い、歴史ドラマでも「家康様」など、諱に「様」をつけたりして呼んでいますね。
 
でも、実際には、生存中「家康」の名が他人の口から発せられることは、めったになかったのですよ。
 
当時の位の高い人は、「役職」や「官位」などで呼ばれるのが当然でした。
 
天皇から「征夷大将軍」に任ぜられた人の「諱」を分断するなど、あってはならないことだったのです。
 
「諱」に直接触れることは、その相手を意図して呪う(仏神の力で罰や災いを与えようとしている)ことの現れとみなされました。
 
「諱」には本人の魂がこもっているという信仰を、豊臣家は(多分わざと)破ったのです。
 
そして、「国家安康」で徳川の「諱」を表し「君臣豊楽」では豊臣の「姓」を使っています。
 
この扱いも、批判されて当然といえます。

 

おわりに

 
歴史の定説は、時代とともに変わることがあります。
 
今回の「鐘銘事件」では、当時の人の「諱」(いみな)の持つ意味と、その取扱いの重要性を考えることで、以前の解釈が変わったのです。
でも、一方で、従来通りの説を信じる専門家もいます。
 
結局、真実は、分からないのです。
 
いずれにせよ、鐘に刻まれた小さな文字が、大きな戦のきっかけになったということは確かなので、興味深いですね。

 
 

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