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今回は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の長女、「大姫」(おおひめ)の悲しく短い一生についてお伝えします。
 
 
彼女は父の政略に翻弄され続け、失意のうちに20歳の若さでこの世を去りました。

 
 

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大姫の生い立ち

 

 
大姫(おおひめ)は1178年に伊豆に流罪になっていた源頼朝北条政子の間に生まれました。
 
 
「大姫」というのは「長女」を意味する言葉で、本名は「一幡(いちまん)」だったのではないかといわれています。
 
 
彼女は生まれたときから体が弱く病気がちだったそうです。
 
 
しかし、彼女の一生を見ていくと、体は弱かったけれど、意志の強い情深い女性だったとわかります。

 
 

6歳で運命の相手に出会う

 

1183年、もともと不仲だった源頼朝と木曽義仲が、平家追討のために和睦することになり、その印としてお互いの子供を婚約させる取り決めをしました。
 
 
それで、木曽義仲の長男・義高(清水冠者)が鎌倉にやって来たのです。
 
 
義高は名目上は大姫の婚約者(許婚)でしたが、父同士が敵対すると命はない、つまり実際は人質として送られてきたのでした。
 
 
大姫が6歳、義高が11歳のときでした。
 
 
大人の事情など知らない大姫にとって、義高は優しくてりりしい「将来のお婿さん」でした。
 
 
周りの目から見ても、二人はとても仲睦まじく、大姫は義高によくなついていたそうです。
 
 
母の政子や侍女たちは、6歳の少女が兄を慕うようになついているのだろうと思っていました。
 
 
しかし、大姫はこのとき運命の相手を見つけていたのです。

 
 

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義高の逃亡を助ける

 

 
大姫と婚約者・義高との幸せな時間は、長くは続きませんでした。
 
 
翌年の1184年、源頼朝が弟の範頼と義経に命じて、義高の父・木曽義仲を滅ぼしてしまったのです。
 
 
頼朝は、義高がいずれ自分を父の仇と復讐を企てるかもしれないと考え義高を誅殺するよう命じました。
 
 
そのことを耳にした大姫は、黙ってはいられません。彼女は、義高の逃亡を手助けする決意をしました。
 
 
義高をこっそり屋敷から逃がし、故郷の木曽へ逃亡させる計画を立てたのです。
 
 
4月21日、大姫は侍女たちの協力のもと、義高を女装させてこっそり屋敷から抜け出させました。馬は足音が聞こえないように蹄(ひずめ)に真綿を巻いて他の場所に隠しておきました。
 
 
また、屋敷には義高が逃亡したことがばれないように、海野幸氏(うんのゆきうじ)が身代わりになって時間稼をさせていました。
 
 
海野幸氏(うんのゆきうじ)は、義高の鎌倉にいたころからの側近でした。彼は身代わりになって死ぬ覚悟だったのですが、のちに頼朝に許され御家人になり、弓の名手としても知られます。
 
 
できる限りの逃亡の手助けをした後、大姫は義高を送り出し、彼の無事をただただ祈り続けました。

 
 

義高が父に誅殺される

 

 
しかし、義高の逃亡は、すぐに父・頼朝の知るところとなります。(頼朝がわざと逃亡するように仕向けて殺そうとしたともいわれます)
 
 
頼朝はすぐに追っ手をつかわし、5日後の4月26日、木曽義高は入間河原(埼玉県)で堀親家の郎従藤内光澄に誅殺されてしまいました。
 
 
藤内光澄はわざわざ義高の首級を御所に持ち込み、手柄を立てたと大声で言ったものだから、義高の死はすぐに大姫も知るところとなりました。
 
 
最愛の婚約者の死を知った大姫は、嘆き悲しみ、魂が消えたように病の床につき、水も飲めないほど衰弱してしまいました。
 
 
7歳の少女に立ち直れないほどの精神的ショックを与えてしまったことは、さすがに母の政子も心が痛み悲しみました。
 
 
娘のあまりの憔悴ぶりに、政子は大姫に追い打ちをかけた藤内光澄を許すことができず、配慮がなさすぎたという理由で斬首しました。
 
 
そうしたからといって、大姫の心の傷が癒えるはずもなく、彼女はそれからずっと亡き恋人を思って日々を過ごしたのです。
 
 
首を取られた義高の遺体は、里人たちの手で入間河原に葬られ、のちに政子が供養をして義高を祀る社を建てたそうです。

 
 

静御前との出会い

 

それから2年後の1186年、大姫は病気平癒の祈願のため、10日間の「参籠」(祈願のため寺社におこもりすること)をしました。
 
 
その後、鎌倉にやって来ていた静御前(しずかごぜん)と出会います。
 
 
二人は接点があったのですね。
 
 
静御前は、当時、源頼朝から追われていた弟の義経の愛妾で、逃亡中に捕らえられ尋問のため鎌倉に連れてこられたのでした。
 
 
彼女は都で名高い白拍子だったので、頼朝は静御前に大姫を慰めるために舞いを披露しろと命じました。
 
 
静御前の歌と舞いはたいへん素晴らしかったのですが、愛しい人(義経)を偲ぶ歌を歌って頼朝を怒らせ、政子にとりなしてもらったというエピソードが残ります。
 
 
大姫は、静御前の素晴らしい舞を見てとても喜びました。
 
 
それから静御前が鎌倉にいた4か月ほどの間、大姫と静御前の交流は続き、静御前が京都へ戻れると決まったときには、たくさんの贈り物を持たせ、政子と一緒に見送りました。
 
 
お互い悲恋を経験した相手だから心を通わせたのではともいわれますが、母・政子が彼女に同情的だったので、同じような気持ちだったのかもしれません。

 

 

大姫の入内計画

 

義高の死から10年の歳月が流れた頃、父・頼朝はそろそろ新しい縁談を持ちかけてもよいのではと考えました。頼朝にとって大姫(娘)は政治的な手駒の一つでもあります。
 
 
そこで、病がちな大姫が小康状態のときを見計らって、頼朝の甥で公家の一条高能(いちじょうたかよし)との縁談をまとめようとしました。
 
 
しかし、それを聞いた大姫は憤慨し、「そんな事をするくらいなら深淵に身を投げる」と断固拒絶! 
 
 
頼朝は、娘に負い目があることもあってそれ以上勧めず、あきらめました。大姫は病弱ですが、気は強いですね。
 
 
ところが、頼朝は翌年の1195年に今度は大姫を後鳥羽上皇の妃にしようと画策しました。
 
 
そして、南都の東大寺の大仏殿落慶供養への出席という名目で、政子と長男の頼家、18歳になった大姫を伴って上洛したのです。
 
 
頼朝は、大姫の入内工作にかなり苦心していたようです。朝廷で力のある丹後局土御門通親に接近して、たくさんの貢ぎ物をし、準備を進めたのですが、結局、この計画は失敗に終わりました。

 
 

大姫の病死

 

後鳥羽上皇の元への入内は、さすがの大姫も拒絶することはできませんでした。
 
 
しかし、1197年7月14日、大姫は病が悪化し、再び上洛することなく亡くなったのです。
 
 
20歳でした。
 
 
頼朝の大姫入内計画は、大姫自身の死をもって終わったのです。
 
 
その後、頼朝は今度は次女の三幡(さんまん)を入内させようとしますが、その計画途中の1199年に頼朝自身が謎の死を遂げ、約半後に三幡も病死(暗殺説あり)しその夢は潰えました。
 
 
大姫の時間は、義高が亡くなった7歳のときに止まってしまったのでしょうか。
 
 
いつまでくよくよと引きずってんだと周りの人にうんざりされることもあったようです。
 
 
それでも大姫が頑なに縁談を断り続けたのは、ただただ義高への純愛と貞節を守りたかったからでしょうか。
 
 
もしかしたら、父・頼朝や幕府の手駒でしかない自分たちの定めを憂いて静かに強く抵抗し続けていたのかもしれません。
 
 
いずれにせよ、あの両親の血を継ぐ意志の強い女性だったのでしょう。

 
 

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