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大江広元(おおえのひろもと)は、鎌倉幕府の13人の合議制のメンバーの一人です。
 
 
その13人は、4人が京下りの官人、8人が源頼朝以来仕えていた武将で、大江広元はもっとも源頼朝に信頼されていた人物といわれます。
 
 
彼は頭脳明晰・クールな仕事の鬼で、頼朝の厚い信頼を経て幕府の「政所別当」(長官)を務めました。
 
 
頼朝の腹心だったので、他の御家人に追い落とされても不思議ではない気がしますが、彼は最後まで幕府の重鎮として、その生涯を全うしました。

 
 

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大江の広元の生い立ち


 
大江広元(おおえのひろもと)は、儒学を専門とする京都の下級貴族の生まれです。中原広季の養子で、実父は大江維光(これみつ)とされています。
 
 
兄で同じく13人のメンバーのひとりの中原親能(なかはらのちかよし)が流人時代から頼朝と親交があった縁で頼朝にスカウトされ、朝廷から鎌倉幕府に転職しました。
 
 
頼朝の挙兵時代からの側近で、当初から戦地に赴くことはなく「文人」に徹して、京都との交渉役を引き受けました。

 
 

源頼朝に信頼され腹心になる


 
鎌倉幕府が成立すると、幕府の整備に尽力し、政務・財政処理をする政所(まんどころ)の別当(長官)になりました。
 
 
さらに、幕府に仕えていた御家人たちの訴えを将軍・源頼朝に取り次ぐ「申次」(もうしつぎ)の職にも就いて、源頼朝の腹心としての地位を確立しました。
 
 
「守護」地頭」の設置も、大江広元が提案したと考えられています。
 
 
平家滅亡の後、源頼朝が弟・義経の鎌倉入りを認めず対立したとき、義経が兄に服従する気持ちは変わらないという内容の「嘆願書」(腰越状)を託したのも、大江広元でした。
 
 
源頼朝の腹心で、かつ、敵意がなく信頼できると思ったからこそ、義経は彼に「嘆願状」を託したのです。

 
 

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頭脳で乱世を生き抜く文官の鑑


 
1199年に源頼朝が亡くなると、2代目鎌倉殿に就任した源頼家(みなもとのよりいえ)を、13名の有力御家人たちで指導・監視する体制がしかれました。
 
 
これはまだ18歳だった頼家が専制政治をしないよう抑止するための組織だったともいわれ、「13人の合議制」と呼ばれます。
 
 
大江広元はもちろんこのメンバーの一員でしたが、頼朝亡き後、北条氏が勢力を伸ばし、北条時政も大江広元と共に政所別当(長官)に就任することになりました。
 
 
北条時宗は自分が後ろ盾になっている孫の実朝(さねとも)を将軍に擁するため、様々な策を練って他の有力御家人を排除していきました。
 
 
「梶山景時(かじやまかげとき)の変」、「比企能員(ひきよしかず)の乱」、「畠山重忠(はたけやましげただ)の乱」、「和田合戦」と、次々にライバルの御家人たちを滅亡させ、北条氏内部でも親子が対立し、北条義時が父の時政を追放して覇権争いに勝利しました。
 
 
大江広元はこの有力御家人の争いには一線を画し、冷静に対処して自分の地位を守りぬきました。
 
 
そして、北条氏が優勢となると、北条義時に味方して「和田合戦」では和田義盛一族の滅亡に一役買っています。
 
 
大江広元が御家人の権力争いで排除されなかったのは、北条義時と協調したからだけではありません。
 
 
彼は官僚(文官)だったので武力で対抗する可能性は低いですし、なにより鎌倉幕府の筆頭で京都との優秀な外交役でもあり、彼の代わりを務められる人が他にいなかったからです。
 
 
大江広元は、その冷徹な頭脳をもって、武家政権の中で強い影響力を持ち続けたのです。

 
 

承久の乱で主戦論を説く


 
1221年、3代将軍実朝(さねとも)が刺殺されると、政情不安定な幕府の隙を狙って、後鳥羽上皇が北条義時討伐令を出しました。
 
 
大江広元は、1217年に出家して政務から退いていたのですが、朝敵となることを恐れた御家人たちが朝廷と鎌倉のどちらにつこうか決めかねているのを見て、義時の幕府軍に属するよう説得しました。
 
 
幕府創設以来の重鎮だった彼の御家人たちへの影響力は非常に大きく、幕府側の勝利へ大きな貢献をしました。
 
 
こうしてみていくと、大江広元が生涯を通して支えたのは、源氏でも北条氏でもなく「鎌倉幕府」だったとわかります。
 
 
大江広元は、承久の乱が終わり北条義時が死去した翌年、1225年に76歳で亡くなりました。
 
 
彼は源頼朝の腹心となり、最後まで鎌倉幕府の発展に尽力した人でした。

 
 

大江広元は毛利氏の祖


 
大江広元はあの戦国大名の安芸の戦国大名・毛利氏の先祖といわれます。
 
 
なんでも、彼の4男の大江季光(おおえのすえみつ)が、毛利家を興したのです。
 
 
季光(すえみつ)は父の所領のうち相模国毛利荘(神奈川県厚木市)を相続し、本姓は「大江」のまま苗字を「毛利」に改め毛利家としたのでした。
 
 
この毛利家の12代当主が戦国大名・毛利元就(もうりもとなり)です。
 
 
毛利家に「元」のついた名前が多いのも大江広元にちなんでいるといわれます。毛利元就の長男の毛利隆元、次男で吉川氏に養子に行った吉川元春。孫の毛利輝元などなど「元」の字のつく人は確かに多いですね。

 

おわりに


 
鎌倉幕府の御家人は武士が目立ちますが、一般政務や財政を行う政所、訴訟と裁判事務を行う問柱所などの鎌倉幕府の職制は、大江広元のような公家出身の官吏が活躍しました。
 
 
実は彼らこそ、組織の屋台骨となる優れた人材だったのです。
 
 
特に、大江広元は、幕府の要の要職に就いて、御家人たちから畏怖される人物になり、冷徹な頭脳で難しい武家政権の中を渡り切った逸材でした。

 
 
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