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こんにちは。
 
 
古来より日本刀は英傑たちとの関連エピソードがたくさん伝えられています。
 
 
特に織田信長は刀剣エピソードが多いような気が・・・
 
 
数々の天下人に愛された刀剣「宗三左文字(そうざさもんじ)」もその一振でした。
 
 
2018年秋の京都博物館「京のかたな」にも展示が決まっていますよ。
 
 
この日本刀は、「左文字」と名の付く刀剣のなかでもひときわ興味深いエピソードを持つ刀で、名だたる大名に愛された名刀でした。

 
 

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傾国の刀「宗三左文字」

 

 
 
「宗三左文字」は南北朝時代に作刀された日本刀です。
 
 
持ち主の名前から「三好左文字」「義元左文字」と呼ばれることもありますが、すべて同じ刀剣です。(「三好」は三好長政、「義元」は今川義元)
 
 
こういうのが、ややこしくて混乱する原因になるんですよね。
 
 
宗三左文字は始めは二尺六寸の長さの「太刀」でしたが、信長の元で「打刀」に磨り直された刀です。
 
 
もともと室町幕府の管領、細川晴元の側近だった三好政長の太刀でした。それで、「三好左文字」「宗三左文字」と呼ばれるのでした。
 
 
「宗三(そうざ)」というのは、三好長政の法名「宗三」からきてます。作刀した刀匠の名は不明です。

 
 

天下を狙う者が持つ刀

 

【あす楽対応!】 新名刀シリーズ 模造刀 宗三左文字
 
 
宗三左文字は三好長政の手を離れてから、名だたる天下人の手を渡り歩きました。
 
 
それが、後に天下人となるような大物ばかりだったので、いつしか「天下を狙う者が持つ刀」と呼ばれるようになったのです。
 
 
まず、天文五年(1536年)、細川晴元の正室の妹・三条公頼の娘が、武田信玄に嫁ぐとき、三好長政はこの美しい刀剣・宗三左文字を、武田信玄の父の信虎に贈りました。
 
 
そして、その翌年、宗三左文字は今度は武田信虎の娘が駿河国の今川義元に嫁ぐ婿引出物として、武田信虎から今川義元に贈られたのです。
 
 
それから23年間、宗三左文字は今川義元の愛刀として常にそばにありました

 
 

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「桶狭間の戦い」で今川義元から織田信長の元へ

 

 
永禄三年(1960年)、「桶狭間の戦い」今川義元織田信長に討ち取られました。
 
 
桶狭間の戦場で、今川義元は宗三左文字を腰に携えていました。
 
 
そして、義元は討死してしまい、宗三左文字は戦利品として織田信長の元に渡ったのです。

 
 

信長と共に「本能寺」で焼けた

 

 
織田信長は宗三左文字をたいそう気に入って、短く磨り上げて自分好みに打ち直させました。(太刀→打刀)
 
 
そして、茎(なかご)の表と裏にそれぞれ
 
「織田尾張守信長」
「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」

 
という金象嵌銘を入れ、自分の愛刀にしたのでした。
 
 
「大事な持ち物には名前を書いておきましょう」というアレですね。
 
 
織田信長がいよいよ天下人にという頃には、その元に数多くの名だたる名刀が集めるようになりました。
 
 
「永禄の変」で討たれた剣豪将軍・足利義輝(13代)の多くの名刀、天下五剣の三日月宗近・童子切安綱・鬼丸国綱も信長の手に渡っています。
 
 
そんな名刀ぞろいのコレクションの中で、信長が特に気に入っていたといわれるのが、宗三左文字、薬研藤四郎、へし切長谷部、不動行光といわれます。(「刀剣乱舞」の「織田組」)
 
 
天正十年(1582)「本能寺の変」で織田信長が家臣の明智光秀に襲撃されたとき、信長と共に炎で焼かれた刀剣は、宗三左文字、薬研藤四郎、不動行光、そして長船派の太刀の実休光忠(じっきゅうみつただ)などです。
 
 
実際、本能寺で信長が手にして戦ったのは、実休光忠(じっきゅうみつただ)だったといわれます。
 
 
宗三左文字は、最期まで鑑賞するためにそばにおきたい刀だったのでしょう。

 

 

徳川家康の刀として「大坂夏の陣」に参加

 

 
宗三左文字は「本能寺の変」の後、松尾大社の神官の手を経て、信長の家臣だった豊臣秀吉の手に渡りました。
 
 
天下人・豊臣秀吉の死後はその息子の秀頼に譲られ、その後徳川家康に贈られました。
 
 
徳川家康はこの刀を気に入り、「大坂の陣」で佩いていたそうです。
 
 
徳川家の世(江戸時代)になると、宗三左文字はそれ以降、「徳川将軍家の重宝」として代々受け継がれていきました。
 
 
1657年に「明暦の大火」で焼けてしまいましたが、その後、再刃されて蘇りました。

 
 

「建勲神社」に寄進され信長の元に

 

 
天下人の元を渡り歩いた宗三左文字は、明治維新後、徳川家から「とある神社」に奉納されました。
 
 
その神社は、京都市北区の船岡山にある「建勲神社」です。明治天皇が織田信長に「建勲(たけいさお)」という神号を贈り、信長をご祭神として創建された神社でした。
 
 
建勲神社が創建されたとき(1869年)、徳川家は信長所縁の刀ということで、宗三左文字を「義元左文字」の名称で神社に寄進したのです。
 
 
信長が刀に自分の名前を刻んだのが、このときに効いたのかもしれませんね。こうして、宗三左文字は、織田信長の元に戻りました。

 
 

京都の御朱印めぐり~「刀剣乱舞」審神者向け

 
 


 
京都では、粟田神社、藤森神社、建勲神社、豊国神社の4神社で「京都刀剣御朱印めぐり」がもよおされています。
 
 
もう「第7弾」になります。
 
 
今回は、各社ゆかりの「刀剣男士名」の記された専用色紙(1部1200円)と御朱印(1社300円)が授与されますよ。
 
 
また4社すべて巡拝された方には、最終の神社で記念品(特製ガーゼハンカチ)を授与されますよ。
 
 
この御朱印企画、神社が離れてるので、1日で全部回るのしんどいです。。。
 
 
でも、これから行楽の季節になるので、行こうかなとも思ってます。
 
 
粟田神社→三日月宗近・一期一振
藤森神社→鶴丸国永
建勲神社→宗三左文字・薬研藤四郎
豊国神社→骨喰藤四郎

 
 


 
 
薬研(やげん)は10月に「写し」の展示があるので、御朱印も特別製のがもらえますよ・・・・
 
 

おわりに

 

 
打刀「宗三左文字」(そうざさもんじ)についてお伝えしました。
 
 
武田、今川、織田、豊臣、徳川という大物の元を渡り歩き、歴史の荒波にもまれた名刀です。
 
 
特に、今川義元織田信長はずっと手元に置いていて、信長はこの刀に自分の名を刻んだほど気に入っていました。
 
 
「本能寺の変」「明暦の大火」で2度焼けましたが、その後、再刃(さいじん)されています。
 
 
日本刀は、火災で焼けたり、研ぎ減って刃がなくなっても、程度によって再度焼き入れをしてよみがえらせることができます。
 
 
最後に宗三左文字を所持していた人を、まとめておきますね。
 
 
三好政長
  ↓
武田信虎(←信玄の父親)
  ↓
今川義元(桶狭間の戦い)
  ↓
織田信長(本能寺の変)
  ↓
豊臣秀吉
  ↓
豊臣秀頼
  ↓
徳川家康(大坂夏の陣)

 
 
京都博物館に展示される期間は、前期(9月29日~10月28日)ですよ。
 
 
詳しい情報はこちらにあります。↓




 
織田信長についてはこちらを♪
    ↓


 
 
 
 

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