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平安後期、源平の争乱の序曲となった「保元の乱」。(3年後に起こった「平治の乱」とまとめて「保元・平治の乱」ということもある)
 
 
ここでは1156年に起こった「保元の乱」について、誰と誰が争いどんな結果になったのかお伝えします。
 
 
この乱は簡単にいうと天皇家と摂関家それぞれの兄弟間の権力争いでした。
 
 
ついでに、乱の実戦部隊として利用された武士も親族同士が敵味方に分かれて戦いました。

 
 

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崇徳上皇VS後鳥羽天皇

 

 
鳥羽上皇は第一皇子の崇徳天皇を自分の子でないと思って冷遇し、そうそうに母違いの「弟」近衛天皇に譲位させ、崇徳上皇に「院政」を行えないようにしていましました。(「皇太弟事件」)
 
 
しかし、近衛天皇は若くしてなくなってしまったので、次の天皇を決めることになります。崇徳上皇は今度は自分の息子にもチャンスがあるのでは(自分が上皇として院政を行えるのでは)と期待したのですが、やはり鳥羽上皇がそれを遮り、第4皇子の雅仁親王を後白河天皇として即位させました。
 
 
ところがその翌年の1156年に鳥羽上皇が病死したのです。
 
 
朝廷は28年間「院政」を行っていた鳥羽上皇のポジションが空くという大きな問題に直面します。
 
 
順当にいけば、息子の皇太子に譲位して「上皇」にシフトできる立場の後白河天皇でした。
 
 
しかし、このタイミングで崇徳上皇が自分の直系に天皇を戻したいと考えてもおかしくありません。
 
 
こうして崇徳上皇後鳥羽上皇という二人の「上皇」が並び立ち、「院政」をめぐる争いに発展していったのです。

 
 

藤原頼長VS藤原忠通

 

 
摂関家もドロドロした家族間の戦いが起こっていました。
 
 
藤原忠実は凡庸な次男の忠通(ただみち)に代わり、秀才で切れ者の三男・頼長(よりなが)を次の「関白」にしたいと考えていました。
 
 
忠通は長らく子供がいなかったので、弟の頼長を跡継ぎにする約束をしていました。しかし50歳を過ぎて息子が生まれたため、前言撤回すると言い出します。昔からよくあるパターンですが、それで父と弟を激怒させることになりました。
 
 
頼長は秀才でしたが厳格すぎて敵が多く、鳥羽天皇や近衛天皇に疎まれるようになっていました。一方の忠通は鳥羽天皇や近衛天皇にすり寄っていきます。
 
 
そうすると、頼長が崇徳上皇に近づいていくのは時間の問題でした。

 
 

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きっかけは崇徳上皇謀反の噂

 

 
鳥羽上皇が亡くなった直後から、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」(『兵範記』)という噂がささやかれ始めます。崇徳上皇と藤原頼長が軍を率いて反乱を起こそうとしているというのです。
 
 
この噂を受けた後白河天皇は直ちに藤原頼長の財産を没収し、兵を集められないようにしました。
 
 
でも、今ではこの噂の出所は後白河天皇側だとされています。この機会に崇徳上皇を完全に排除するためにとった策略で、後白河上皇の側近の信西(しんぜい)が流したと推測されているのです。
 
 
朝廷内は後白河天皇派と崇徳上皇派に分裂しました
 
 
追い詰められた崇徳上皇と藤原頼長は、身の危険を感じ挙兵するしかない状態に追い込まれてしまいます。
 
 
そして他の貴族たちも後白河天皇派と崇徳上皇派にわかれ、それぞれが武士の力を借りて争うことになっていきました。

 

たった1日で終わった「保元の乱」

 

 
「保元の乱」は崇徳上皇派の源頼長が挙兵して始まりました。
 
 
謀反の噂を流され身の危険を感じた崇徳上皇は脱出し、藤原頼長は宇治から上洛して貴族や武士を集めました。一方、後白河天皇側も崇徳上皇らの動きを察知して、多くの武士たちを動員しました。
 
 
1156年7月11日未明、後白河天皇派の平清盛率いる300余騎、源義朝率いる200余騎、源義康率いる100余騎が夜襲をかけ、乱はたった1日であっけなく終わりました。
 
 
崇徳上皇側も兵から夜襲をかけるべきという意見が出たものの、そんな卑怯なことはするべきでないと藤原頼長が反対したともいわれます。
 
 
襲撃された崇徳上皇側は防戦しましたが、藤原家成の邸宅に火が放たれそれが白河北殿に燃え移ったことで総崩れになりました。

 
 

◆勝者・後白河天皇派

 
【貴族】
藤原忠通(藤原忠実の次男)
信西(属名は藤原通憲)
徳大寺実能
 
【武士】
平清盛(平忠正の甥)
源義朝(源為義の長男)
源義康
源頼政

 

◆敗者・崇徳上皇派

 
【貴族】
藤原頼長(藤原忠実の三男)
藤原教長
藤原実清
 
【武士】
源為義(源義朝の父)
源為朝(源義朝の弟)
平忠正(平清盛の叔父)
平家弘

 
こうしてみると、親子、兄弟、叔父、甥などが敵になっているのがわかります。「保元の乱」は天皇家だけでなく藤原摂関家も源氏・平氏も共に親族相争うドロドロの戦いだったのです。

 

後味悪い後始末

 

 
「保元の乱」で敗北した崇徳上皇は敗走したあと出頭し、藤原教長や源為義など上皇派の貴族や武士も続いて投降しました。
 
 
頭部に矢傷を負った藤原頼長は敗走して奈良の興福寺にいる父・忠実に助けを求めましたが、忠実は摂関家を守るため断腸の思いで息子を拒絶しました。絶望した頼長は舌を噛み切り、しばらくして息を引き取ました。彼の亡骸は奈良の般若野に埋葬されました。(のちに信西の命で遺体をは掘り返され野に晒されます)
 
 
「保元の乱」の後には両軍に対して処罰が下りました。
 
 
彼らへの処罰、特に武士に対する処罰はとても厳しく、平忠正、平家弘、源為義は一族もろとも斬首にされました。
 
 
「死刑」の復活は「薬子の変」以来、約200年ぶりのことで、人々は衝撃を受けました。しかも武士たちは、息子が父の首を、甥が叔父の首を斬るという身内同士での刑を強いられました。
 
 
なかなかえげつないです。
 
 
崇徳上皇は天皇や上皇としては淳仁天皇の淡路への島流し(奈良時代)以来、約400年ぶりの「流罪」(讃岐へ)という屈辱的な刑に服しました。
 
 
その後、崇徳上皇は二度と京の都へ帰ることは叶わず、8年後の1164年に讃岐で亡くなりました。
 
 
一方、勝者側の藤原忠通も、なぜか摂関家の多くの荘園や利権を後白河上皇の側近の信西(しんぜい)に取り上げられてしまいました。まるで敗者のような扱いです。
 
 
院の近臣だった「摂関家」(藤原北家)が没落し、藤原南家出身の信西(しんぜい)が権勢をふるうようになったのです。
 
 
こうして後白河上皇の院政時代には、信西の独裁色がどんどん強まっていきました
 
 
信西の独裁に対する貴族たちの反感はどんどん高まり、それが3年後の「平治の乱」につながります。

 
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保元の乱の歴史的意義とは


 
「保元の乱」は、朝廷が争いの道具として武士を利用したところ、実際は武士の力を借りなければ戦いすらできないことを露呈してしまいました。
 
 
もはや朝廷内の内部抗争で勝つには、武士の力が不可欠な時代になったのです。
 
 
「保元の乱」とその後の「平治の乱」の歴史的意義は、貴族の没落と武士の時代の到来です。
 
 
この乱が「源平の争乱」のプロローグとなり、その後、約700年にわたる武家政権へとつながるきっかけとなったのです。

 
 
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