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1086年、白河天皇が8歳の息子・堀河天皇に譲位し、上皇になって「院政」を始めました。時代は摂関政治から院政へ移行したのです。その白河上皇の孫に当たり次に5歳で即位したのが、今回ご紹介する鳥羽天皇です。
 
 
鳥羽天皇は成人してからも祖父の白河天皇、息子の崇徳天皇との関係が複雑で、当時の社会情勢も関係して混乱を招いてしまいます。

 
 

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鳥羽上皇の生い立ち

 

 
院政をはじめた白河上皇は、堀河天皇・鳥羽天皇・崇徳天皇の3代の天皇の上に43年間君臨しました。
 
 
その孫にあたる鳥羽上皇は、白河上皇が亡くなったあと、崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代の天皇の上で28年間院政を行います。
 
 
鳥羽天皇は、堀河天皇と藤原苡子(しげこ)の長男として誕生しました。
 
 
生後すぐに祖父・白河上皇に引き取られ、1107年には父の堀河天皇が亡くなったため、わずか5歳で即位したのです。
 
 
まだ幼い鳥羽天皇が政務につくことはもちろんできず、摂関家の力が弱まっていたこともあり、政務は堀河天皇時代と同じく白河上皇が取り仕切っておいました。
 
 
やがて成人した鳥羽天皇は、白河上皇の養女・藤原璋子(たまこ)(待賢門院)を中宮に迎え、1119年には第1皇子・顕仁(あきひと)親王が誕生します。
 
 
そこで、成人した鳥羽天皇に権力を渡したくなかった白河法皇は、幼い顕仁親王に譲位するよう彼に迫りました
 
 
1123年、鳥羽天皇は祖父・白河上皇の圧力に耐え切れず、ついに5歳の息子に譲位しました。それが崇徳天皇です。当時、鳥羽天皇は20歳でした。
 
 
こうして、白河上皇はまだまだ権力を握り続けたのです。
 
 
物心ついたころからずっと祖父に頭を押さえつけられていた鳥羽天皇、祖父から受けた屈辱は耐え難いものだったかもしれません。
 
 
また、鳥羽天皇の中宮・藤原璋子(待賢門院)は表向きは白河上皇の養女でしたが、愛人だという噂がありました。そのため、鳥羽天皇は第1皇子の崇徳天皇の本当の父親は白河上皇なのではという疑念をずっと抱いていたのです。
 
 
彼はそれが事実であるかのように、息子を「叔父子(おじご)」と呼び嫌っていたそうです。(『吾妻鑑』)
 
 
祖父には積もり積もった憎悪がありその祖父の子かもしれない自分の息子を嫌悪する気持ちはわかります。でも、何も知らない崇徳天皇はもっと気の毒な気がします。
 
 
1129年、白河上皇が77歳でこの世を去りました。ついに鳥羽上皇が権力を取り戻し、院政を始める立場になったのです。

 
 

鳥羽上皇の院政スタート

 

 
祖父が亡くなってようやく実権を握れた鳥羽天皇は、朝廷内を統率し、白河上皇時代に重用された家臣たち、中宮の藤原璋子(たまこ)(待賢門院)、息子の崇徳天皇を遠ざけました
 
 
そして、藤原璋子に代わり、あからさまに藤原得子(美福門院)を寵愛するようになり、得子との間の子・躰仁(なりひと)親王を即位させるため、崇徳天皇に譲位を迫りました
 
 
白河法皇という強大な後ろ盾を失った崇徳天皇は孤立し、抗うすべはありません。
 
 
ただ、、鳥羽上皇は躰仁親王を即位させるため、崇徳天皇の中宮・藤原聖子(皇嘉門院)の養子にしていたので、躰仁親王は崇徳天皇とも養子、つまり親子関係にあるとされていました。
 
 
だから、崇徳天皇に譲位しても院政を行えると思わせていたのですが、実際の譲位の宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」と記されていたそうです。つまり、崇徳天皇は即位した近衛天皇(躰仁親王)の「父」ではなく「兄」、院政をする権利がなくなってしまったのでした。(『愚管抄』『今鏡』より)
 
 
「院政」ができる条件は自分がかつて天皇だったことと、現天皇の直系の血筋(父や祖父)であることです。「兄」は不可ということです。だまして譲位させたようなものです。
 
 
崇徳天皇との親子の信頼関係はボロボロです。
 
 
その後、この関係が源平の動乱につながる「保元の乱」のきっかけになっていきます。
 
 
人の恨みは怖いものです。
 
 
こうしてわずか3歳で即位した近衛天皇でしたが、彼は1155年に17歳の若さで亡くなってしまいます。
 
 
鳥羽天皇は自分が院政を続けられるようにまた幼い後継者を探し、第4皇子の雅仁親王の子・守仁親王を即位させようと考えました。(鳥羽天皇の孫)
 
 
しかし、守仁親王が幼かったことに加え、まだ存命中の父親・雅仁親王を飛び越えて即位させてもよいのかという問題が朝廷内で議論されたため、守仁親王が成長するまでの「中継ぎ」として雅仁親王を即位させることに決めたのでした。
 
 
この雅仁親王が、「平家物語」でよく知られる後白河天皇です。
 
 
皇位継承とは無縁と思い優雅に遊び暮らしていた今様狂いの29歳の親王が、いきなり大抜擢されたのでした。

 
 

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動乱のはじまり「保元の乱」

 

 
近衛天皇が亡くなり後白河天皇が即位した翌年の1156年、鳥羽法皇が54歳で病死しました
 
 
生まれたときから身内との怨恨に振り回された人生だったように思えます。
 
 
そして、この鳥羽上皇が亡くなった後、上皇として政治の実権を握るポジションが空いたため、再び天皇をめぐる権力争いが起こりそれが「保元の乱」に発展していったのです。
 
 
先ほど記したように躰仁親王が近衛天皇として即位する際、崇徳上皇は父ではなく兄と記され、ルール上「院政」を行うことができなくなりました。
 
 
院政を行う望みが打ち砕かれ自分の血筋が皇位から外されたことに、崇徳上皇は憤っていたそうです。
 
 
そうして、崇徳上皇と後白河天皇が真っ向から対立し、それに藤原摂関家の内紛が重なって「保元の乱」が起こったのでした。
 
 
それは、鳥羽上皇が亡くなってからわずか9日後のことだったのです。

 


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