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「平治の乱」は、平安後期1159年に起こった戦乱です。
 
 
それは「保元」の乱からわずか3年後のことで、朝廷内はまだ混乱が続いている状態でした。
 
 
「平治の乱」は、敵味方がややこしいので、人間関係を整理にしながら見ていくのがポイントです。

 
 

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「平治の乱」前半戦は打倒信西!

 

 
「保元の乱」を勝利に導いた参謀の信西は、後白河天皇の信任を得て大きな権力を持つようになりました。
 
 
そんな信西に脅威を感じ「打倒信西」を掲げて武力行使に出たのが「平治の乱」の始まりです。
 
 
同じ後白河天皇派だった藤原信頼は、信西の独裁に反感を持ち次第に敵対していきます。一方、天皇親政を望む二条天皇派(反後白河上皇)はもちろん信西と敵対していました。
 
 
どちらも信西という共通の敵を持ったことで、藤原信頼と二条天皇の近臣たちは手を結んだのです。
 
 
一方、後白河天皇派の武士はというと、平氏を重用して源氏を冷遇した信西に対して、源義朝は大きな恨みを抱いていました。
 
  
 
つまりここで「信西」VS「藤原信頼+二条天皇近臣+源義朝」という対立が出来上がったのです。
 
 
1159年、信西を倒すため、藤原信頼らは中立派で大きな軍事力を持つ平清盛が熊野詣で京を留守にしたすきに決起しました。
 
 
それが「平治の乱」のはじまりです。
 
 
後白河上皇は、すぐに藤原信頼によって院御所の三条殿の内裏に幽閉されました。
 
 
信西は乱の直前にそれを察知して、興福寺に落ち延びようと試みましたが、途中の宇治田原で追手に見つかり自害しました。

 
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「平治の乱」後半戦は平清盛VS源義朝

 

 
信西の首は回収され引き回しの上、晒されることになりました。
 
 
「打倒信西」で協力した後白河上皇派の藤原信頼と二条天皇派は、共通の敵が消えたことで一安心と思いきや、次第に対立していきます。後白河上皇と二条天皇を手に入れた藤原信頼が、独裁色を強めていき、二条天皇派がそれに大きな不満を持ったからです。
 
 
そこへ大軍を率いた平清盛が返ってきました。
 
 
信頼のやり方に反発していた二条天皇派は、ここぞとばかりに中立の平清盛に近づき、彼を味方につけることに成功しました。
 
 
そして信頼が気づかないうちに、二条天皇を清盛の六波羅邸へ移し、後白河上皇を説得して仁和寺へと避難させたのです。
 
 
こうして藤原信頼+源義朝VS二条天皇派+平清盛という対立軸が出来上がりました。
 
 
二条天皇派と平清盛は、天皇と上皇をすでに手に入れています。つまり、こちらが「官軍」となり軍の数も圧倒していました。
 
 
平清盛軍はあっという間に源義朝軍を破りました。義朝は再起をかけて逃亡しましたが、途中、味方に裏切られ殺されました。
 
 
藤原信頼は捕縛され、貴族であるにもかかわらず六条河原で斬首されました。

 
 

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平家の台頭

 

 
「平治の乱」の後半戦は源義朝と平清盛との対立で、平氏が圧倒的な力の差を見せつけて大勝利をおさめました。
 
 
その結果、摂関家は弱体化し、後白河上皇も二条天皇もしばらくの間、政治から遠ざかるしかなくなります。
 
 
その結果、平清盛を中心にした平家一門が圧倒的な存在感を持ち、次々と政界の重要ポストに就き全盛期を迎えます。
 
 
源義朝を失った源氏は一族の多くが罪人となり、急速に衰えていきました。
 
 
こうして「平氏にあらずんば人にあらず」という「迷言」を生む平家の世になっていくのです。
 
 
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