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信西(しんぜい)は平安後期の武士が台頭する時代に朝廷内で活躍しようとした学者・官人でした。
 
 
今回は源平の争乱のきっかけになった「保元・平治の乱」に大きくかかわる信西の生涯についてお伝えします。

 
 

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信西の生い立ち

 

 
信西(しんぜい)は出家後の法号で、俗名は藤原通憲(みちのり)といいました。父は学者筋の中級役人でしたが7歳のときに経済的に裕福だった高階経敏の養子となったので、高階道憲と呼ばれることもあります。
 
 
彼は藤原氏の一員でしたが、摂関家のように権力のあった「藤原北家」ではなく「藤原南家」の出身でした。彼はかなりの秀才で実力者だった(『愚管抄』『今鏡』)ので、当時、学識が高く秀才と称賛されていた摂関家(北家)の藤原頼長と並ぶ才能の持ち主だったと思われます。
 
 
信西はもともと学者筋の家で生まれ育ったこともあり学問で出世したかったのですが、その家柄ゆえ出世がはばまれる社会に失望していきました。そして、とうとう39歳の時に出家し「信西」という法号で呼ばれるようになったのです。

 
 

後白河天皇後ろ盾を得るチャンス到来

 

 
朝廷での出世の見込みのなかった信西でしたが、ひょんなことから大きなチャンスを得ることになります。
 
 
近衛天皇が若くして亡くなり、その後に鳥羽天皇の第4皇子・雅仁親王が29歳で後白河天皇として即位したのです。
 
 
実は、信西の妻の藤原朝子がこの後白河天皇の乳母(めのと)でした。信西が乳父になったのです。
 
 
それから間もなく(翌年)には鳥羽上皇が病死し、後白河天皇は息子に譲位して上皇になり「院政」を行うことになりました。
 
 
そうして秀才だった信西は、朝廷を統べなければならない後白河天皇に次第に重用されるようになっていきます。

 
 

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「保元の乱」の勝者に

 

 
後白河天皇の側近として支えたのは、ほかに鳥羽上皇の側近だった関白の藤原忠通(頼長の兄)らがいました。
 
 
当時、朝廷のパワーバランスは不安定で、後白河天皇は皇位継承をめぐって兄の崇徳上皇と対立していました。
 
 
それに摂関家の跡目争いがからまって、崇徳上皇と藤原頼長らが後白河天皇側と武力衝突してしまう事態に発展しました。
 
 
これが1156年に起こった「保元の乱」です。
 
 
この乱で後白河天皇の参謀だった信西は、夜襲をかけるという源義朝の提案を受け入れ、たった1日で勝利します。
 
 
こうして信西は後白河天皇の元で大きな権力を握るようになったのです。

 
 

信西独裁への不満が高まる

 

 
「保元の乱」の後処理として、信西は数百年ぶりに日本で「死刑」を復活をさせ敗者側の武士・源為義らを斬首しました。
 
 
そして、同志だったはずの藤原忠通の力を削いで摂関家の弱体化を図っていったのです。
 
 
さらに、信西は自分の息子を次の天皇・二条天皇の側近にすることにも成功しました。しかし、これらの強引な権力行使によって、彼は二条天皇の側近たちを敵にまわしてしまいます。
 
 
また、院政を行う後白河上皇に重用されていた信西は、他の院近臣、特に以前から仲が悪かった藤原信頼と大きく対立していくのです。

 
 

「平治の乱」で自害する

 

 
「平治の乱」は3年前に起こった「保元の乱」勝者の後白河派が分裂して戦うことになりました。
 
 
後白河上皇の側近の藤原信頼は二条天皇方の側近たちと組み、さらに「保元の乱」の後、平氏ばかりを重用した信西へ不満を募らせていた源氏の武士たち(源義朝、源光保ら)を味方につけて「打倒信西」の名のもとに団結していったのです。
 
 
そうして1159年、藤原信頼らは当時中立の立場で最大勢力だった平清盛が熊野詣に出発し都から離れたすきに乱を起こしたのでした。
 
 
これが「平治の乱」の始まりです。
 
 
「打倒信西」を掲げた信頼・義朝の軍は後白河上皇のいる院御所の三条殿を襲い、上皇を内裏に幽閉してしまいました。
 
 
一方、彼らの襲撃を察知した信西は南都(興福寺)へ避難しようとし、自分の領地のある宇治田原のあたりまで逃げていました。
 
 
しかし、追ってを放たれもはやこれまでと悟った信西は、最後まで伴っていた4人の従者たちに自分がすっぽり入れる穴を掘らせました。
 
 
そして自分はその穴に入り、息継ぎ用の竹を一本地面に出して生き埋めにさせました。その後、従者たちには各々落ち延びよと命じ、自分は息のある限り念仏を唱えるといいました。
 
 
緩やかな自殺、または「即身成仏」を図ったとも伝わります。
 
 
4人の従者たちは自分たちも出家するので最後に信西に法名をつけてほしいと願い、信西は彼らに「西」の字を与え、師光を西光(さいこう)、成景を西景(さいけい)、師清を西清(さいせい)、清実を西実(さいじつ)と名付けました。
 
 
しかし、信西はまだ息のあるうちに追ってに見つかってしまい、最期は穴の中で刀で喉をついて自害しました。
 
 
熊野詣の途中で都の政変を聞いた平清盛は急いで京に戻り、後白河上皇を助け源義朝の兵たちを打ち破りました。
 
 
その後、信西の首は京の都大路で晒され、彼の息子たちは配流されることになります。

 
 

信西の残した功績


 
源平の争乱ではとかく悪役扱いされがちな信西ですが、頭脳明晰の学者だった信西は、理想が高くよりよい社会を築こうという強い信念の持ち主でした。
 
 
彼のとった荘園整理などの急進的な政策は貴族や武士など特権階級の反感を買いましたが、民衆には人気が高く、彼の死は多くの庶民に悼まれたそうです。
 
 
信西は「宋」へ渡ってもっと多くの知識を得て、それを日本の国造りに生かしたいという理想を持っていました。
 
 
彼はやはり政治家というよりは学者だったのでしょう。
 
 
信西が編纂した歴史書『本朝世紀』は、鳥羽上皇の命によって宇多天皇から近衛天皇までの約250年間にわたる宮廷での事跡を年代に沿って整理編纂したものです。
 
 
信西の死によって編纂は未完に終わりましたが、20巻ほどが現存していて史学史上たいへん重要な史料となっています。
 
 
学者らしい地道な研究を重ね体系的にまとめられたこの歴史書は、彼の残した大きな功績でしょう。

 
 

まとめ


 
・信西は藤原南家出身の優れた学者だった
 
 
・実力者なのに家柄の壁で出世できず絶望して出家した
 
 
・「保元の乱」で後白河天皇の僧侶参謀として活躍し勝利した。
 
 
・権力を独占し急進的な政策をとったため、仲間の後白河上皇の近臣たちや二条天皇の側近たちから敵対され「平治の乱」で命を落とした

 
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