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ピアノを習っている人なら、音楽家というより「超絶技法のピアニスト」とまず頭に浮かぶフランツ・リスト。
 
 
今回は美貌のナルシスト、イケイケロッカーのようなイメージの大スターの生涯をおもしろエピソードを交えてご紹介します。
 
 
年表はこの記事の最後です。

 
 

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◆リストはハンガリー生まれ

 

 
リストはウイーンで活躍したのでそのイメージが強いですが、生まれはハンガリーです。
 
 
ハンガリー人の父とオーストリア人の母の間に生まれ、11歳になるまでハンガリーで育ちました。
 
 
両親は家庭でずっとドイツ語で話していたため、リストもドイツ語ネイティブ、ハンガリー語を話すことはありませんでした。
 
 
他の多くの音楽家と同じく、リストも幼少期から音楽の英才教育を受け、10歳頃にはピアノ奏者としてすでに高度なテクニックを身につけていました。

 
 

◆11歳でウイーン音楽院へ

 

 
リスト11歳のとき、彼の音楽の才能を伸ばすために両親はオーストリアのウイーンへ移住することを決めました。
 
 
そして、リストはウィーン音楽院に入学して練習曲で有名なツェルニーなど一流の演奏者から直接指導を受けるようになったのです。
 
 
ウィーン音楽院を卒業した後、リストはそのままオーストリア(ウィーン)で暮らし、この地で音楽活動を始めました。
 
 
そして、ショパン、メンデルスゾーン、シューマンなど同世代のビッグネームの音楽家と知り合い、お互いに刺激を与えながら自分の音楽を確立していきました。

 
 

◆パガニーニの演奏で超絶技巧に目覚める

 

 
19歳のころ、リストは彼の音楽家としての方向性を決める衝撃的な演奏を聴くことになります。
 
 
それはピアノではなくヴァイオリンでした。
 
 
超絶技巧を駆使して演奏したパガニーニの演奏です。
 
 
その演奏に「ヤバイ! カッコいい!」と大きな感銘を受けたリストは、「私はピアノのパガニーニになる!」と決意したのでした。
 
 
リストといえば超絶技巧、パガニーニとの出会いが「ピアノの魔術師」の生まれるきっかけだったのです。

 
 

◆ピアノの魔術師・イケイケライブで絶好調

 

 
その後、超絶技巧を披露したリストは、コンサートで大成功をおさめました。
 
 
彼はパガニーニのような超絶技巧をマスターするのに、多くの時間はかかりませんでした。もちろん相当の努力はしたでしょうけど、彼は規格外の「大きな手」に恵まれたピアニストだったのです。
 
 
ピアニストにとって「手」は演奏道具の一部です。リストの手は「13度」までの音を掴めたと伝わります。
 
 
13度というとドから1オクターブ上のドを超えて「ラ」まで・・・? ほんまかいな
 
 
1オクターブがやっとという私からすると、もはや神の手、というか変態・・・(;’∀’)
 
 
そんな変態的なテクニカル技巧の持ち主だったのです。(ちなみに、これまた難しい曲の多いロシアのラフマニノフも13度届いたといわれます)
 
 
でも、テクニカル一辺倒の一発屋で済まさなかったところが、フランツ・リストのすごいところでした。
 
 
それには、彼の見た目(ルックス)も大いに役に立ってました。
 
 
甘いマスクに美しく澄んだ碧い瞳、180㎝を超える高身長でスタイル抜群、そんな華のある彼が颯爽とステージに現れると、一斉に女性から黄色い歓声が上がったそうです。
 
 
ライブコンサートは毎回超満員、着飾った女性でひしめきあっていたとか。
 
 
そうして美貌のピアニストは、誰もマネのできないような圧倒的な演奏技術で聴衆を魅了したのです。
 
 
女性たちの心をわし掴みですよ~。私も生演奏、見たかった。
 
 
間違いなく史上最強のピアニストでした。
 
 
当時の批評家も「彼を超えるピアニストはもう生まれないだろう」「歴代最高のピアニストだ」と絶賛でした。
 
 
でも、実際そのとおりだったと思います。
 
 
そして、また彼はカリスマ性のある当代きっての「スター」でした。
 
 
リストが演奏する情熱的な姿を見て、興奮のあまり失神する女性客が多数いたそうです。
 
 
ライブでは自分の似顔絵パッケージのチョコレートなどライブグッズも販売していたそうですよ。
 
 
まるで伝説のロックミュージシャンのような人だったのです。

 
 

◆後年は作曲家として活躍

 

 
ピアニストとして彗星のごとくきらびやかに登場したリストも、やがてアラフォーとなり一線を退く決心をします。
 
 
36歳のとき彼はウイーンを去り、次の仕事をドイツ・ワイマールの宮廷楽長と決めたのでした。
 
 
この宮廷楽長時代のリストは、静かに作曲家としても活躍しています。
 
 
「ハンガリー幻想曲」などの管弦楽曲交響詩を作ったのはこの頃でした。
 
 
そして、10年ほどたつと、今度は教皇のおひざ元、ローマに移住しましあた。
 
 
50歳ぐらいになっていた彼は、カトリックの僧職(下級聖職位)に就いて、宗教音楽の作曲に挑戦したのです。幾つになっても新しい道を探し続けているところが男前ですね。
 
 
リストの作風は、今度は調性を持たない「無調」へと変わりました。
 
 
そして、この晩年期の「無調」の作品は、後のラヴェルなど印象主義音楽家に大きな影響を与えました。
 
 
そうして、1886年、フランツ・リストは74年の生涯に幕を閉じました。死因は慢性気道閉塞と心筋梗塞と伝わります。

 
 

◆ショパンとはライバル?仲良し?

 

 
同時代のピアニストとして、リストはショパンとよく比較されます。
 
 
この2人、どちらもピアニストで連弾する仲でもあったのですが、イメージが真逆で面白いです。
 
 
繊細でナイーブなショパンとハードロッカーなリスト
 
 
ロマン派代表らしくロマンチックに感情を込めてピアノを奏でるショパンと、人間業とは思えないテクニックを披露し興奮しすぎて途中でピアノをぶっ壊すこともあるリスト。(わざとではなくピアノの強度がリストの技巧についていけなかったので壊れたらしい)
 
 
「どっちが好き?」となると、かなり好みがはっきり分かれるはず・・・
 
 
表現力は見方によってはショパンが上かも知れませんが、テクニカル面では断然リストが上、というか最強でしょう。
 
 
この2人、どちらもピアニストですが、メインで活躍する舞台が違いました。
 
 
ショパンは上流階級のサロンピアニストというのがしっくりきますし、リストは自分が主役のライブコンサートが向いています。
 
 
彼らが出会ったのはリスト20歳のとき、1歳年上の21歳のショパンがポーランドからウイーンにやってきたときでした。
 
 
どんな難解な曲でも初見で弾けるという「ピアノの魔術師」リストが、このときショパンの曲を上手に弾けなかったのです。
 
 
その曲は特定されていませんが、「別れの曲」だったのではと推測されています。
 
 
「別れの曲」はそんなに難しい曲ではないですが、リストはこれをいつものようにうまく弾くことができなかったのです。
 
 
リストはそれに衝撃を受けました。ショパンの曲はテクニック一辺倒だった当時の練習曲と違い、高い芸術性があり表現力が必要だったからです。
 
 
それから、リストは猛特訓したそうです。抒情的に弾くように・・・”(-“”-)”
 
 
伸びる人はこういうところが凄いのですね。ライバルと切磋琢磨できるところ。
 
 
ショパンとリストはある女性問題で喧嘩別れしてますが、一時期ショパンの家の合鍵をリストが持っていたという仲よしの時期もありました。
 
 
繊細なショパンは、技巧に偏り過ぎるリストにちょっと引いていたようですけど・・・

 
 

◆女性関係は予想通り派手だった?

 

 
ライブでモテモテのフランツ・リストは、実生活ももちろん超絶モテモテ男でした。
 
 
熱狂的な女性ファンたちに朝から晩まで追いかけられていたそうです。現代の人気スターと同じですね。
 
 
そんな感じで女性の影のない時期はあり得ないというモテモテ人生でしたが、初恋のカロリーヌとは失恋で終わっています。17歳のときです。
 
 
色恋沙汰にスポットを当てるとゴシップだらけのろくでもない男になるので略しますが、晩年までほんといろいろやらかしております。
 
 
結婚はしましたが不倫からの略奪婚(マリー・ダグー伯爵夫人)で、その後、浮気をしたあげくにいろいろあって離婚、それから先も複数の女性と恋の遍歴を重ねました。
 
 
また、先程リストはショパンの部屋の合鍵を持っていたと書きましたが、その部屋を逢引目的に内緒で使っていたこともあったようです。
(ほんと、ろくでもない男だ)
 
 
そういえば、リストの恋愛沙汰でショパンと大げんかをしたエピソードも残っています。
 
 
原因は女性の取り合いではなく、ショパンが好んだピアノ会社「プレイエル社」の社長夫人を、リストが例の合鍵持ってるショパンの部屋に連れ込んでバレたのでした。最低です~。
 
 
さすがのショパンもこれには大激怒、それから2人は疎遠になってしまったといわれます。(他にもいろいろあったと思うけど)
 
 
でも、ミュージシャンはこれぐらい破天荒でもよいのではと思えるのでした。

 
 

◆フランツ・リストの年表

 

 
・1811年(0歳)
10月22日、ハンガリーのライディングで誕生。 
父はハンガリー人で母はオーストリア人。
 
・1818年(7歳)
父からピアノを習い始め才能を開花させる。
 
・1821年(10歳)
一家でウィーンに引っ越し。
ツェルニー、サリエリに師事。
 
・1823年(12歳) 
ウィーンでの2回目の演奏会でベートーヴェンと出会う。
パエールに師事。 
 
・1826年 (15歳)
父アーダム死去。
演奏活動を中断し、ピアノ教師として家計を支える。
 
・1828年 (17歳)
カロリーヌとの初恋。
失恋し神経的な発作を起こす。
 
・1830年 (20歳)
ショパン、ベルリオーズ、シューマンらと交流。
 
・1831年(21歳)
「ヴァイオリンの魔術師」ニコロ・パガニーニの演奏を聴いて衝撃を受ける
自分は「ピアノの魔術師」になると超絶技巧習得を志す。
 
・1833年 (22歳)
マリー・ダグー伯爵夫人と出会って恋人同士に。
後に子供が出来て駆け落ち・略奪婚。
 
・1844年 (33歳)
マリー・ダグーと離別。
 
・1846年 (35歳)
「ピアノ協奏曲第1番」「ハンガリー狂詩曲」を作曲。
 
・1847年 (36歳)
ロシア方面の演奏旅行中、大地主であったカロリーネ・ヴィトゲンシュタイン伯爵夫人と恋に落ちる。
 
・1849年(38歳)
「タンホイザー」をワイマールで初演。
ゲーテ生誕100年祭に“第九”を指揮。
 
・1850年(39歳)
「愛の夢」作曲。
ワイマールから宮廷楽長として招かれ、作曲に専念。
 
・1851年(40歳)
「ハンガリー狂詩曲集」作曲。
 
・1859年(48歳)
ワイマール宮廷楽長を辞任。
カロリーネ・ヴィトゲンシュタイン伯爵夫人と離別。
 
・1861年(50歳)
カロリーネとの結婚のためローマに移住。
僧籍に入り下級聖職位を授与。
 
・1869年(58歳)
ワイマールでピアノの教授活動を再開。
 
・1886年7月31日(75歳)
慢性気道閉塞と心筋梗塞により死去。
バイロイトの墓地に埋葬。
 
 
 

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